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2021年12月4日土曜日

モノの回帰と男性的抗議


今回は、フロイト・ラカンにおいて、母への固着の残滓がマゾヒズムをもたらすことをいっそう簡単に示そう。


男性において、他の男性にたいして彼が受動的あるいは女性的立場[passive oder feminine Einstellung]をとらされることにたいする反抗がある。〔・・・〕後になってアルフレット・アドラーは、男性については「男性的抗議」männlicher Protestというまったく適切な名称を使用した。

注)われわれは「男性的抗議」 という概念の意味を、男性の、受動的な立場つまり社会的相における女性性の態度の拒否[die Ablehnung des Mannes gelte der passiven Einstellung, dem sozusagen sozialen Aspekt der Femininität]と理解すべきではない。そのような男性はしばしば女性にたいしてマゾヒズム的態度、隷属さえ示す[daß solche Männer häufig ein masochistisches Verhalten gegen das Weib, geradezu eine Hörigkeit zur Schau tragen]という観察しやすい証拠によってこの見解は否定されるであろう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第8章、1937年)


男性的抗議の話が特にしたいわけではない、何よりもまず、《男性はしばしば女性にたいしてマゾヒズム的態度、隷属さえ示す[Männer häufig ein masochistisches Verhalten gegen das Weib, geradezu eine Hörigkeit zur Schau tragen]》を抽出するための引用である。


マゾヒズム的態度[masochistisches Verhalten]と隷属[Hörigkeit]が等置されている。この前提でほぼ同時期に書かれた次の文を読んでみよう。


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女性への隷属として存続する[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


女性への隷属[Hörigkeit gegen das Weib]は女性へのマゾヒズム的態度[masochistisches Verhalten]に置き換えうる。


つまり「母への固着の残滓は女性へのマゾヒズム的態度として存続する」となる。


この母への固着の残滓がラカンの享楽である。


◼️母なるモノは残滓である

我々がモノと呼ぶものは残滓である[Was wir Dinge mennen, sind Reste,](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノdas Dingの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


◼️残滓は対象a=享楽(リビドー)=固着である

残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, 21 Novembre  1962)

享楽は残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


ーー《母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )



◼️享楽はマゾヒズムである

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert] (Lacan, S23, 10 Février 1976)


したがって、マゾヒズムは母への固着にあり、人は常に母へのマゾヒズム的固着[la fixation de Jouissance masochiste sur la mère]に回帰する、となる。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours]. (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


これがフロイトの次の文の意味である。


常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)


これは男女両性ともの話である。おそらく「男性的抗議」によって抑圧されている方が多いだろうが。


例えば、《モノは享楽の名である[das Ding…est tout de même un nom de la jouissance]》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, 10 juin 2009)と定義される時、「母はマゾヒズムの名」と言い換えてもよいのである。母がマゾヒストではない、最初期には人はみな母なる支配者に対してマゾヒストだということである。



マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年)

母のもとにいる幼児の最初の体験は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動的な性質のものである[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年)



男性的抗議に関しては、フロイトにおいて「受動性/能動性」が「女性性/男性性」という基本があり、男性的抗議は、生物学的な女性にも起こる。



男性的と女性的は、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている[Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne.]。〔・・・〕


だが人間にとっては、心理学的な意味でも生物学的な意味でも、純粋な男性性または女性性[reine Männlichkeit oder Weiblichkeit]は見出されない。個々の人間はすべて、自らの生物学的な性特徴と異性の生物学的な特徴との混淆[Vermengung] をしめしており、また能動性と受動性という心的な性格特徴が生物学的なものに依存しようと、それに依存しまいと同じように、この能動性と受動性との融合[Vereinigung von Aktivität und Passivität]をしめしている。(フロイト『性欲論三篇』第3章、1905年)