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2023年2月27日月曜日

それが壊れたからって騒ぐなよ、初めからわかり切ってるじゃない

 ははあ、直近の柄谷はこう言ってんだな


人生を振り返ることについて:私の謎 柄谷行人回想録① 2023/2/20(火) 

――「戦争の時代が来る」と指摘されていましたが、ウクライナにロシアが侵攻する事態になっています。


柄谷 1989年のベルリンの崩壊以来、新聞も含め、「歴史の終焉」だとか、くだらないことを言ってきたんだからね。それが壊れたからって騒ぐなよ、と。初めからわかり切ってるじゃない。……などとまた言う気もしない。



騒ぎすぎてもよくないかもね、でも《金持ちが戦争を起こし、貧乏人が死ぬ[Quand les riches se font la guerre, ce sont les pauvres qui meurent.]》( サルトル)ぐらいは言っとかないとな、核戦争になったってたかが人類亡びるだけじゃないか!などとは口がさけても言っちゃあダメさ、



もしも人類が生存し続けて行くとするなら、それは単に生まれてきたからというのではなく、その生命を存続させようという決意をするがゆえに存続しうるということになるだろう。l'humanité tout entière, si elle continue de vivre, ce ne sera pas simplement parce qu'elle est née, mais parce qu'elle aura décidé de prolonger sa vie. 


もはや人類という種は存在しない。核爆弾の番人となった共同体は、自然界よりも上にいる。なぜなら、自らの生と死に責任があるからだ。Il n'y a plus d'espèce humaine. La communauté qui s'est faite gardienne de la bombe atomique est au-dessus du règne naturel car elle est responsable de sa vie et de sa mort


ーーサルトル「大戦の終末」Jean-Paul Sartre, La Fin de la guerre , 1er octobre 1945



とはいえ、広島サミット後、日本にもふたたび「解放感」が訪れるかもよ。



本当のことを言うとね、空襲で焼かれたとき、やっぱり解放感ありました。震災でもそれがあるはずなんです。日常生活を破られるというのは大変な恐怖だし、喪失感も強いけど、一方には解放感が必ずある。でも、もうそれは口にしちゃいけないことになっているから。(古井由吉「新潮」2012年1月号又吉直樹対談) 




閑話休題ーー。柄谷に戻れば、当面はインドでも中国でもなくロシアだったが、米国の帝国主義的経済政策に対する戦争であるのは間違いなかったのだから、柄谷の予言の当たりだよ。



世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、2013年11月23日)



昨年10月上梓の『力と交換様式』にはこうあるね。


第二次大戦後の世界は全体として、アメリカのヘゲモニーの下で“自由主義”的であったといえる。それは一九世紀半ば、世界経済がイギリスのヘゲモニー下で“自由主義”的であった時期に似ている。しかし、このような世界体制は、一九七〇年代になって揺らぎ始めた。一つには、敗戦国であったドイツや日本の経済的発展とともに、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われたからである。


しかし、一般に注目されたのは、一九九一年にソ連邦が崩壊し、それとともに、「第二世界」としての社会主義圏が消滅するにいたったことのほうである。このことは、「歴史の終焉」(フランシス・フクヤマ)として騒がれた。愚かしい議論である。このような出来事はむしろ、「歴史の反復」を示すものであったからだ。


そのことを端的に示すのは、一九八〇年代に、それまで「第一世界」を統率し保護する超大国とし“自由主義”を維持してきた米国が、それを放棄し“新自由主義”を唱え始めたことである。つまり、ソ連の「終焉」より前に、資本主義経済のヘゲモンとしての米国の「終焉」が生じたのだ。それは、一九世紀後半にイギリスが産業資本の独占的地位を失い、それまでの“自由主義” を放棄したこと、 すなわち、 “帝国主義”に転化したことと類似する。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)



この文は、何度か示してきた『世界史の構造』(2011年)の図の簡潔な説明として読むことができる。




何よももまず、アメリカの圧倒的ヘゲモニーが失われた1990年以降の新自由主義とは帝国主義の別名だということだ。


柄谷が繰り返し強調しているのは、ネオコンイデオログーのフクヤマが言い出した歴史の終焉と自由民主主義の勝利の愚かしさだね。


現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。

現在、自由ー民主主義は人類が到達した最終的な形態(歴史の終焉)であり、その限界に耐えつつ漸進していくしかない、と考えられている。しかし、当然ながら、自由ー民主主義は最後の形態などではない。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)




とはいえ日本の国際政治学者ってのはなんでとってもおバカなヤツばかりなんだろうな。



鼻を摘みながら読むしかないネオコンイデオロギー拡声器のとってもナイーヴな細谷雄一チャンはこんなこと言っているけどさ。


敵地を更地化するプーチン型の戦争 ウクライナと同時に救うべきこと

聞き手・高島曜介2023年2月25日 18時00分 朝日新聞デジタル

 近年はロシアや中国といった権威主義的な大国と、主に南半球の新興国途上国であるグローバルサウスの国々がより緊密に結びつき、その影響力が拡大してきました。自由民主主義諸国は、今や国際社会でマイノリティーになりつつありますが、これまでそれらの諸国が擁護してきた国際秩序の規範、自由民主主義、法の支配、人権もまた巨大な挑戦を受けています。ロシアによるウクライナ侵攻は、その傾向を加速させているといえます。


彼だけでなく、中堅の国際政治学者ってのはほとんどこのセンの思考なんだよな。帝国主義的な米国主導の「国際秩序」と「自由民主主義」の破廉恥さ加減が現在問われているのに[参照]、いつまでたっても馬耳東風なんだ、連中は。なぜなのかね?




ーー東野篤子さんの旦那鶴岡路人さん等、抜かしてゴメンナサイ。スペースの具合であり、悪気はアリマセン。



菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄「菊池寛」)


こういった世の中で一番始末に悪い背景に学問を持った馬鹿の「浅薄な誤解」というのは厄介なんだよな、実に。


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)



とくに21世紀は公衆の愚かさがことさら進歩しちまったからな



フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes. 

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)




………………


※付記


柄谷の現在に至るまでの思考の原点のひとつとして、冷戦終焉直後に書かれたエッセイ「歴史の終焉について」はきわめて重要だよ。



人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。


それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。〔・・・〕


自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。そして、個と類という回路のなかでのこうした思考が取りうる形態は、個人主義か、全体主義か、個がそのまま全体であるといったモナドロジーか、ヘーゲル的な有機体論かのいずれかである。「原理的」に考える者は、必ずこの四つのうちのどれかを取ることになる。この意味で、思想が取りうる形式はコジェーヴがいったように、ヘーゲルの体系のなかに尽くされている。それゆえ、またヘーゲルにおいて歴史は終ったといわねばならなくなる。


だが、それは歴史を原理あるいは理念の実現として見るからである。そうした原理は、歴史的な資本主義経済の発展の中で、そとに生じ且つ変動する諸階級の闘争の結果として実現されたものであり、またつねにそとに属している。資本主義が「終り」を無限に endlessly先送りするものである以上、「歴史の終焉」などありはしない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)