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2023年4月18日火曜日

詩人は常に精神分析家に先んじている


 私は折に触れて引用しているがね、前回示したように偉大なんだよ、谷川俊太郎は。傑出して。ほとんどの読み手は「まともに」受け取っていないだけで。前々回掲げたブニュエルとダリの『アンダルシアの犬』、あるいはゲーテの『ファウスト』だってもちろんそうだ。


われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。

Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen (フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年)


フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており[ l'artiste toujours le précède] 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを[ il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie] 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年)

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977)



谷川俊太郎には、フロイトラカン派の精神分析の核心、少なくともそのエキスのひとつがある。日本のチョロいフロイトラカン研究者はまったく気づいていないが。


ラカンが上で言っているデュラスの偉大さは、直接的には1964年の『ロル・V・シュタインの歓喜(Le Ravissement de Lol V. Stein)』にかかわるのだが、いっそう偉大なのは、例えば1981年、ラカンの死の年の『死の病』だね。



愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。

Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : 


あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。

Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. 


彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」

Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là.(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)



前回記したように、黒い夜は抑圧されている(厳密には原抑圧されている)。だが抑圧されたものは回帰する。ラカンが反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)と言った原点にある意味はこれである。


…………


★参照


フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime :

すなわち、症状は自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である。

le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle. 〔・・・〕


これは「抑圧されたものの回帰」のスキーマと対をなしている。…対をなしているのは症状の形態における「享楽の回帰」である。そしてこの固執する残滓が、ラカンの対象aである。C'est symétrique du schéma du retour du refoulé, …symétriquement il y a retour de jouissance, sous la forme du symptôme. Et c'est ce reste persistant à quoi Lacan a donné la lettre petit a. (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)




残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

享楽は、残滓 (а)  による[la jouissance…par ce reste : (а)  ](Lacan, S10, 13 Mars 1963)


ーー《抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係するのである[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]》(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)



※厳密には、原抑圧=穴(トラウマ)=享楽であり、享楽は原抑圧されたものである。つまり享楽の回帰とは原抑圧されたものの回帰=トラウマの回帰である(但し、後年のフロイトは抑圧という語をほとんど常に原抑圧の意味で使っている[参照])。


私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)


繰り返せば、フロイトにおいて(原)抑圧されたものの回帰はトラウマの回帰であり、これがラカンの享楽の回帰である。

抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)

結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


ここにある「防衛」が「抑圧」である、ーー《私は後年、(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)「防衛過程 Abwehrvorganges」概念を「抑圧 Verdrängung」概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの「防衛Abwehr」という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。》(フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)



フロイトにとって始源の原抑圧は出産トラウマ=原トラウマであり、つまり最も根源的な原抑圧されたものの回帰は母胎回帰である。


出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう「原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。

Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, …eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


これが事実上、デュラスの『死の病い』における「黒い夜への回帰」とすることができる。

実際、ラカンは享楽についてこう言っている、ーー《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance].》 (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


この意味で、究極の原抑圧されたものの回帰は死への回帰とさえ言いうる。


フェレンツィ(1921–1922)が説明した橋[der Brücke. Ferenczi hat es 1921–1922 aufgeklärt.]。橋は何よりもまず、両親が性交において結びつく男根を意味する[der Brücke…Es bedeutet ursprünglich das männliche Glied, das das Elternpaar beim Geschlechtsverkehr miteinander verbindet]。


だがそこからさらに別の意味への展開がある。その意味は、橋は、他の世界(未生の状態、子宮)からこの世界(生)への越境である。さらに橋は母胎回帰(羊水への回帰)としての死をもイメージする[wird die Brücke der Übergang vom Jenseits (dem Noch-nicht-geboren-sein, dem Mutterleib) zum Diesseits (dem Leben), und da sich der Mensch auch den Tod als Rückkehr in den Mutterleib (ins Wasser) vorstellt ](フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)