かわいそう 谷川俊太郎 |
わたしはともだちにうそをつくけど おとなってじぶんにうそをつくのね わたしはからだがちいさいけど おとなってこころがちいさいのね わたしはのはらであそびたいのに おとなってほんとはおかあさんの おなかのなかにもどりたいのね それなのにおかあさんはもういない おとなってこどもよりずっとずっと かわいくてかわいそう |
ーーってのは何度か掲げている好みの詩だが、「わたしはのはらであそびたい」ってのは潜伏期のこどもだろうな[参照]。
潜伏期以外のヒトは似たようなもんだろうよ
結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
不安は対象を喪った反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
※不安=不快=享楽=現実界=モノ |
不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970) |
欲動は、満足を求めるという限りで、絶え間なき執拗な享楽の意志としてある[la pulsion en tant qu'elle veut se satisfaire, en tant que volonté de jouissance, insistance entre elles. ] 欲動要求が快原理と矛盾するとき、不安と呼ばれる不快がある。これをラカンは一度だけ言ったが、それで十分である。すなわち不安は現実界の信号であり、モノの索引である[Alors quand cette insistance pulsionnelle entre en contradiction avec le principe du plaisir, il y a ce déplaisir qu'on appelle angoisse. Et c'est pourquoi Lacan peut dire une fois mais ça suffit, que l'angoisse est signal du réel et index de la Chose, est index de Das Ding.] (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6. - 02/06/2004) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
※モノ=異者=不気味なもの
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger] (Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年) |
不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年) |
究極の抑圧されたものの回帰は女性器の回帰だよ(注意:抑圧は誤訳)
………………
以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
※放棄された子宮内生活[aufgegebenen Intrauterinleben ]=喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年) |
享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要) |
モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,] (Lacan, S7, 20 Janvier 1960 ) |
例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond. ](Lacan, S11, 20 Mai 1964) |
ーー《子宮内生活は、まったき享楽の原像である[La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite.]》 (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007) |
要するに唯一の真理はバウボだよ
恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?… Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |
|
谷川俊太郎はやっぱり偉大だね、唯一の真理をしっかり掴んでいる。
なんでもおまんこ 谷川俊太郎 |
なんでもおまんこなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな すっぱだかの巨人だよ でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな 空だって色っぽいよお 晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ 空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ どうにかしてくれよ そこに咲いてるその花とだってやりてえよ 形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ 花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお |
どこ行くと思う? わかるはずねえだろそんなこと 蜂がうらやましいよお ああたまんねえ 風が吹いてくるよお 風とはもうやってるも同然だよ 頼みもしないのにさわってくるんだ そよそよそよそようまいんだよさわりかたが 女なんかめじゃねえよお ああ毛が立っちゃう どうしてくれるんだよお おれのからだ おれの気持ち 溶けてなくなっちゃいそうだよ |
おれ地面掘るよ 土の匂いだよ 水もじゅくじゅく湧いてくるよ おれに土かけてくれよお 草も葉っぱも虫もいっしょくたによお でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ 笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ |
谷川俊太郎は最初期からわかっていた。
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
どの穴も女陰の開口部の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識について』第7章、1915年) |
谷川にはニーチェフロイトラカンだけでなくスピノザがいるよ。
享楽に固有の空胞、穴の配置は、欲動における境界構造と私が呼ぶものにある[configuration de vacuole, de trou propre à la jouissance…à ce que j'appelle dans la pulsion une structure de bord. ](Lacan, S16, 12 Mars 1969) |
欲動は、心的なものと身体的なものとの境界概念である[der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem](フロイト『欲動および欲動の運命』1915年) |
自己の努力が精神だけに関係するときは「意志 voluntas」と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には「欲動 appetitus」と呼ばれる。ゆえに欲動とは人間の本質に他ならない。 Hic conatus cum ad mentem solam refertur, voluntas appellatur; sed cum ad mentem et corpus simul refertur, vocatur appetitus , qui proinde nihil aliud est, quam ipsa hominis essentia(スピノザ『エチカ』第三部、定理9、1677年) |
ーーAppetitus ist Trieb (Willehad Lanwer & Wolfgang Jantzen, Jahrbuch der Luria-Gesellschaft 2014) |