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2023年5月12日金曜日

私は「彼」をまったく信用していない


 「自傷的自己愛? ➡︎「エス的自我」」で冗談っぽく記したがね、ふたたび何やら言ってくるんならはっきりと返すが、僕は斎藤環という人物をまったく信用していないんだよ。

彼には「知る人ぞ知る」ーー僕は10年以上前に松本卓也くんのツイートで知ったーーさるヒキコモリ患者に対する出来事があるのだが、ここではそれには触れないでおくにしろ、理論的に限っていっても問題が大きい。

以下はもう昔のことで、まだラカンが十分に読み込まれていない時代の記述であり、当時としてはやむ得ないとしてもよいが、斎藤環はおそらくこの誤謬をいまだ修正できていないように見えるんだな。


記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです(斎藤環「茂木健一郎との往復書簡」2010年)



これが大きな誤りなのは、ジャック=アラン・ミレールがラカンがまだ生きている1980年に確言している。



ラカンの影響と呼ばれるものが認められるところでは常に、彼の教育はシニフィアンの作用の重視に還元されてしまった。だが、ラカンはそのようなものではまったくない。Lacan's influence has been felt, his teaching has been used to exalt the play of signifiers. But this is not what Lacan is about, not at all.〔・・・〕

いわゆる、ラカンの「影響」がシニフィアンの作用というものの一方的評価として受け取られる場合、分析経験にはまったくの混乱がもたらされる。When the so-called “influence” of Lacan is used solely to endorse the play of signifiers: it has the effect of completely disorienting the analytic experience.(ジャック=アラン・ミレール「もう一人のラカン」J.-A. Miller, Another Lacan, 1980年)



ラカンにはシニフィアンの主体だけでなく、リアルな享楽の主体がある。そもそもシニフィアンは見せかけ(仮象)である、ーー《見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ]》(ラカン、S18, 13 Janvier 1971)



主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)


シニフィアンの主体とは「欲望の主体」、享楽の主体は「欲動の主体」である(参照)。

シニフィアンはもちろん言語に関わり、他方、享楽は身体に関わる。前者は隠喩としての象徴界の症状、後者は身体の出来事としての現実界の症状であり、後期ラカンはこのリアルな症状をサントームと呼んだ。これについては比較的詳しく、➡︎「原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper]」に記述してある。



斎藤環はこのリアルな症状への視線がひどく欠けているように見える。これは何もフロイトラカン派観点の話だけではなく、シニフィアンの作用に限った症状を対象としてしまう精神分析家においては、ミレール曰くの《分析経験にはまったくの混乱がもたらされる》。


そもそもシニフィアンレベルの症状なんてのは、エディプス期以後の症状であり、斎藤環が尊敬している「らしい」中井久夫だってとっくのむかしにその欠陥を指摘しているよ。


精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)




斎藤環は「承認」という語をしばしば口にし、ときに承認欲求の問題を分析治療の核にしているようにさえ見える精神科医だが、これ自体、反「後期ラカン」だね。


後期ラカンの教えには、欲望のデフレ[ une déflation du désir] がある。〔・・・〕


ラカンはその教えで、分析実践の適用ポイントを欲望から享楽へと移行させた。ラカンの最初の教えは、存在欠如[manque-à-être]と存在の欲望[désir d'être]を基礎としている。それは解釈システム、言わば承認の解釈を指示した。

Lacan déplace aussi le point d'application de  la pratique analytique du désir à la jouissance.  Le premier enseignement repose sur le manque à être et sur le désir d'être et prescrit un certain régime de l'interprétation, disons, l'interprétation de reconnaissance.〔・・・〕

しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因 [la cause du désir]を扱う別の時期がある。それは、存在欠如は、たんなる防衛としての欲望、存在するものに対しての防衛として扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在するのか。それはフロイトが欲動と呼んだもの、ラカンが享楽の名を与えたものである。

Mais il y a un autre régime de l'interprétation qui porte non sur le désir mais sur la cause du désir et ça, c'est une interprétation qui traite le désir comme une défense, qui traite le manque à être comme une défense contre ce qui existe et ce qui existe, au contraire du désir qui est manque à être, ce qui existe, c'est ce que Freud a abordé par les pulsions et à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.  (J.-A. MILLER, L'être et l'un, 11/05/2011)



以上、可能な限り「穏やかに」記したつもりだよ、罵倒にならないようにね。もう何やら言ってくるなよな、ワカルダロ