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2023年5月23日火曜日

快と不快、あるいは美徳と悪徳


 ◼️快と不快

学問の目標について

なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? 


Vom Ziele der Wissenschaft. ― Wie? Das letzte Ziel der Wissenschaft sei, dem Menschen möglichst viel Lust und möglichst wenig Unlust zu schaffen? Wie, wenn nun Lust und Unlust so mit einem Stricke zusammengeknüpft wären, dass, wer möglichst viel von der einen haben will, auch möglichst viel von der andern haben muss,(ニーチェ『悦ばしき知識』12番、1882年)




◼️不快なる力への意志の刺激剤


人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。


快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。


この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。

人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。


不快は、《私たちの力の感情の低減 》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤》なのである。

Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unsres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, – das Hemmniß ist der stimulus dieses Willens zur Macht.

(ニーチェ『力への意志』第702番、1888年)




◼️ 力への意志なる欲動の暴力


すべての欲動力(駆り立てる力)[ alle treibende Kraft]は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt](ニーチェ「力への意志」遺稿 Anfang 1888)

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志[stärksten Instinkt, den Willen zur Macht]を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888)


荒々しい「自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動 」を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.] (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)

欲動蠢動、この蠢動は刺激、無秩序への呼びかけ、いやさらに暴動への呼びかけである [la Triebregung …Regung est stimulation, l'appel au désordre, voire à l'émeute](ラカン, S10, 14  Novembre  1962)




◼️高次の文化における聖なる野獣


われわれが「高次の文化」と呼ぶほとんどすべてのものは、残酷さの精神化の上に成り立っているーーこれが私のテーゼである。あの「野獣」が殺害されたということはまったくない。まだ、生きておりその盛りにある、それどころかひたすら――神聖なものになっている。[Fast Alles, was wir "hoehere Cultur" nennen, beruht auf der Vergeistigung und Vertiefung der Grausamkeit - dies ist mein Satz; jenes "wilde Thier" ist gar nicht abgetoedtet worden, es lebt, es blueht, es hat sich nur -vergoettlicht. ](ニーチェ『善悪の彼岸』229番、1886年)

欲動は聖なるものとなる、つまり「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht".  ](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887)





◼️美徳と悪徳


ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。

Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: (ニーチェ『反時代的考察』第二部「序文」)


われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない[Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.](ラ・ロシュフコー『箴言集』1665年)

偽善とは、悪徳が美徳に対してささげる賛辞である[L'hypocrisie est un hommage que le vice rend à la vertu. ](ラ・ロシュフコー『箴言集』1665年)




◼️幸福と不快


この世の何だって耐えられる 

楽しい日々が続く以外は。


Alles in der Welt lässt sich ertragen,

Nur nicht eine Reihe von schönen Tagen.


ーーゲーテ「格言風に Sprichwörtlich」


厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年)




◼️戦争と残酷の享楽


最も厳しい倫理が支配している、あの小さな、たえず危険にさらされている共同体が戦争状態にあるとき、人間にとってはいかなる享楽が最高のものであるか? [Welcher Genuss ist für Menschen im Kriegszustande jener kleinen, stets gefährdeten Gemeinde, wo die strengste Sittlichkeit waltet, der höchste?] 戦争状態ゆえに、力があふれ、復讐心が強く、敵意をもち、悪意があり、邪推深く、どんなおそろしいことも進んでし、欠乏と倫理によって鍛えられた人々にとって? 残酷の享楽[Der Genuss der Grausamkeitである。残酷である点で工夫に富み、飽くことがないということは、この状態にあるそのような人々の徳にもまた数えられる。共同体は残酷な者の行為で元気を養って、絶え間のない不安と用心の陰鬱さを断然投げすてる。残酷は人類の最も古い祭りの一つである[Die Grausamkeit gehört zur ältesten Festfreude der Menschheit].〔・・・〕

「世界史」に先行している、あの広大な「風習の倫理」の時期に、現在われわれが同感することをほとんど不可能にする……この主要歴史においては、痛みは徳として、残酷は徳として、偽装は徳として、復讐は徳として、理性の否定は徳として、これと反対に、満足は危険として、知識欲は危険として、平和は危険として、同情は危険として、同情されることは侮辱として、仕事は侮辱として、狂気は神性として、変化は非倫理的で破滅をはらんだものとして、通用していた! ――諸君はお考えになるか、これらすべてのものは変わった、人類はその故にその性格を取りかえたに違いないと? おお、人間通の諸君よ、互いをもっとよくお知りなさい![Oh, ihr Menschenkenner, lernt euch besser kennen! ](ニーチェ『曙光』18番、1881年)




◼️戦争は不可欠


戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich]


人類が戦争することを忘れてしまった時に、人類からなお多くのことを(あるいは、その時はじめて多くのことを)期待するなどということは、むなしい夢想であり、おめでたい話だ[eitel Schwärmerei und Schönseelentum]。あの野営をするときの荒々しいエネルギー、あの深い非個人的な憎悪、良心の苛責をともなわないあの殺人の冷血[jene Mörder-Kaltblütigkeit mit gutem Gewissen]、敵を絶滅しようというあの共通な組織的熱情、大きな損失や自分ならびに親しい人々の生死などを問題にしないあの誇らかな無関心、あの重苦しい地震のような魂の震憾などを、すべての大きな戦争があたえるほど強く確実に、だらけた民族にあたえられそうな方法は、さしあたり、ほかには見つからない。

もちろん、ここで氾濫する河川は、石やあらゆる種類の汚物を押し流して、微妙な文化の沃野を荒すけれど、後日、事情が好転すれば、この河川の力によって、精神の仕事場の歯車が新しい力でまわされることになる。文化は激情や悪徳や悪事をどうしても欠くことはできないのだ[Die Kultur kann die Leidenschaften, Laster und Bosheiten durchaus nicht entbehren]。


帝政時代のローマ人がいくらか戦争に倦いてきたとき、彼らは、狩猟や剣士の試合やキリスト教徒の迫害によって、新しい力を獲得しようとこころみたものだった。大体においてやはり戦争を放棄したように見える現在のイギリス人は、あの消滅してゆく活力をあらたにつくり出すために、別の手段を取っている。 あの危険な探険旅行とか遠洋航海とか登山とかは、科学上の目的からくわだてられるものと言われているが、その実、あらゆる種類の冒険や危険から、余分の力を持って帰ろうというのだ。

人間はまだまだ戦争の代用物[Surrogate des Krieges]をいろいろ考え出すことだろうが、現今のヨーロッパ人のように高度の文化を持った、したがって必然的に無気力な人類は、文化の手段のために、自分たちの文化と自分たちの存在そのものを失わないためには、戦争どころか、最も大きい、最もおそろしい戦争――すなわち、野蛮状態への一時的復帰を[zeitweiliger Rückfälle in die Barbare]ーー必要とするということがむしろこの代用物によって、かえってはっきりわかるようになることだろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的な』上  477番、1878年)




◼️戦争の代用物としての言葉と眼差しによる拷問

人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる[aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)




◼️善事の土台


いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか!…[wieviel Blut und Grausen ist auf dem Grunde aller »guten Dinge«!... ](ニーチェ『道徳の系譜』第二篇第三節、1887年)




◼️私は病気だ、超自我の欲動ゆえに

私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde]( Lacan parle à Bruxelles、 26 Février 1977)

超自我は享楽の意志である[le surmoi, c'est une volonté de jouissance](J.-A. MILLER, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 3 novembre 1982)

享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、超自我の真の価値は欲動の主体である[Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion]. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)




◼️超自我と欲動の固着


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

私は大他者に斜線を記す、Ⱥと。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)




◼️固着の残滓なる原始時代のドラゴン


分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält.] (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓[Reste der früheren Libidofixierungen]が存続しうる〔・・・〕

 一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)




◼️破壊への意志


より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)

私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動[Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb]による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である[Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten.]。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)