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2023年5月23日火曜日

二つの態度

 














私はここ数日NHK組織に対してはもっと追い詰めるべきだと考えていた。だがそうすることで若いMディレクターが真っ先に追い詰められこれはいささかまずいとも(究極的には自殺への恐れ)。


もっと一般的に言えば、①共感の共同体批判と②被害者意識批判(吟味)のあいだで私は揺れ動く。

ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収)


これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ「別れのワルツ」)

被害者意識というのはやっかいなものです。私も、被害者なのだから何を言っても許されるというある種の全能感と権力性を有してしまった時期があります。〔・・・〕


調子に乗っていた当時の自分を振り返ると、恥ずかしい。だけど日本社会は今も、あの時と同じように謙虚さを失い、調子に乗ったままなのではないかと思います。(蓮池透ーー元「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」事務局長、朝日新聞2013.7.13)



②被害者は最も残酷な加害者になりうる



とはいえ、そもそもこういうやりとりをメモして投稿すること自体にある種のあやうさがあるのではないか・・・と思いつつやはり投稿する私は、いまのNHKなどの主流メディアーーワクチン問題だけでなく、宇露戦争における翼賛報道ーーにあまりにも強い憤りがあるせいである。


私の身辺にある人間がいる。私はその人を憎んでいる。だからその人が何かの不幸にもで遭えば、私の中には烈しい喜びの衝動が動く[in mir eine lebhafte Regung zustande kommt, mich zu freuen, wenn ihr etwas widerfährt]。ところが私の徳義心は、私自身のそういう衝動を肯定しようとしない。私はあえて呪いの願望を外に出すことをしかねている。


さて偶然その人の身の上に何か悪いことが起こったとき、私はそれに対する私の充足感を抑えつけ、相手を気の毒に思うことを口にも出すし、自分の気持にも強制するであろう。誰にもこんな経験はあるにちがいない。


ところがその当の人間が不正を犯してそれ相当の罰をこうむるというようなことでも起ると、そのときこそ私は、彼が正当にも罰をこうむったことに対する私の充足感を自由に外に出すことができる。そして、彼に対して愛憎を持っていない多くの人々と自分もこの点では同意見だとはっきり口外する。


しかし私の充足感はほかの人たちのそれよりも一段と強いものであることを、私は自分自身のうえに観察しうる。私の充足感は、情念動出を内心の検閲によってそれまでは妨げられていたが、今や事情が一変してもはやそれを妨げられることのなくなった私の憎悪心という源泉からエネルギーの補助を受けているのである。


こういう事情は、反感をいだかれている人物であるとか、世間から好かれていない少数党に属する人間であるとかがなんらかの罪を己が身の上に招くようなときには普通世間でよく見られるところのものである。こういう場合、彼らの受ける罰は彼らの罪に釣り合わないのが普通で、むしろ彼らに対して向けられていたが外に出ることのなかった悪意プラス罪[Verschulden vermehrt um das bisher effektlose Übelwollen]というものに釣り合うのである。


処罰者たちはこの場合明らかに一個の不正を犯す。彼らはしかし自分たちが不正を犯しているということを認め知ることができない。なぜならかれらは、永いこと一所懸命に守ってきた抑制が今こそ排除されて、彼らの心の中には充足感が生まれてきて、そのために眼が眩んでしまっているからである。


こういう場合、情動はその性質からすれば正当なものであるが、その度合からすれば正当なものではない。そして第一の点では安心してしまっている自己批評が、第二の点の検討を無視してしまうのはじつに易々たることなのである。扉がいったん開かれてしまえば、もともと入場を許可しようと思っていた以上の人間がどやどやと入りこんでくるのである。


神経症患者における、情動を湧起せしめうる動因が質的には正常だが量的には異常な結果を生むという神経症的性格の著しい特色は、それがそもそも心理学的に説明されうるかぎりではこのようにして説明されるのである。しかしその量的過剰は、それまでは抑制されて無意識のままにとどまっていた情動源泉に発している。そしてこれらの源泉は現実的動因と連想的結合関係を結びうるものであり、また、その情動表出には、何の要求をも持たないところの、天下御免の情動源泉が望みどおりの途を拓いてくれるのである。


抑制を加える心的検問所と抑制を受ける心的な力とのあいだにはいつも必ずしも相互的妨害の関係が存するばかりではないということにわれわれは気づかされるわけである。抑制する検問所と抑制される検問所とが協同作業をして、相互に強化しあい、その結果ある病的な現象を生じせしめるというようないくつかの場合も同様注目に値する。 (フロイト『夢解釈』第6章H「夢の中の情動」第5節)



※補遺:「快と不快、美徳と悪徳