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2023年7月23日日曜日

経済なき自由主義、かつシュミットなき民主主義は寝言

 


政治用語というのは、その文脈上の使用法で大きく意味合いが異なり、安易に使うとひどく誤解を招くことになるのだが、何度か引用しているドゥルーズの簡潔な左翼と右翼の定義がある。


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年)



この「左翼/右翼」は何よりもまず「タテマエ/ホンネ」だろうね、人はみな究極的には自分自身が大事なのだからホンネのところでは右翼だ。例えば極限状況では、稀な例外を除き、人はほとんどみな右翼になる。それは飢餓状況に陥った人に最も端的に現れる(とはいえ通常状態ではタテマエは大事だよ、たとえそれが偽善でも)。


一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていく

私は疲れきっていた。虚脱状態だった。火焔から逃げるのにふらふらになっていたといっていい。何を考える気力もなかった。それに、私は、あまりにも多くのものを見すぎていた。それこそ、何もかも。たとえば、私は爆弾が落ちるのを見た。…渦まく火焔を見た。…黒焦げの死体を見た。その死体を無造作に片づける自分の手を見た。死体のそばで平気でものを食べる自分たちを見た。高貴な精神が、一瞬にして醜悪なものにかわるのを見た。一個のパンを父と子が死に物狂いでとりあいしたり、母が子を捨てて逃げていくのを見た。人間のもつどうしようもないみにくさ、いやらしさも見た。そして、その人間の一人にすぎない自分を、私は見た。(『小田実全仕事』第八巻六四貢)




さて「左翼⇔右翼」を当面、「タテマエ⇔ホンネ」と置いてみたが、政治教科書的には一般に次のような区別がされるようだ[参照]。






左翼/右翼が、革新/保守はいいとしても、私はリベラル(自由主義)が左翼だとはまったく思っていない人間だが、Wikipediaを見ると確かにこうある。


liberal (複数 liberals)


自由主義者。

(米) 左翼思想の持主。

自由党支持者。

(英) 政府の統制をできるだけ抑制すべきだという考えの持ち主。



このへんで既にメゲてくるんだが、先のリンクには次の図も示されている。




これでさらに「ははあマイッタナ」という感じになる。とはいえ、この区分を仮にマニウケレバ、大きな政府やジェンダーフリーを除けば、ボクはリベラル左翼かね。キミはどうだい?


こんな図もあるな。



リバタリアニズム(libertarianism)ってのはあまり近寄りたくない語なのだが、何だっけな、これまたWikipediaを覗いてみて確認(?)してみたけどさ。ひょっとしてニーチェの自由の定義みたいなもんじゃないかね。



今日のために生き、きわめて迅速に生き、 ――きわめて無責任に生きるということ、このことこそ「自由」と名づけられているものにほかならない。制度を制度たらしめるものは、軽蔑され、憎悪され、拒絶される。すなわち、人は、「権威」という言葉が聞こえるだけでも、おのれが新しい奴隷状態の危険のうちにあると信じるのである。それほどまでにデカタンスは、私たちの政治家の、私たちの政党の価値本能のうちで進行している。だから、解体させるものを、終末を早めるものを、彼らはよしとして本能的に選びとる・・・

Man lebt für heute, man lebt sehr geschwind – man lebt sehr unverantwortlich: dies gerade nennt man »Freiheit«. Was aus Institutionen Institutionen macht, wird verachtet, gehaßt, abgelehnt: man glaubt sich in der Gefahr einer neuen Sklaverei, wo das Wort »Autorität« auch nur laut wird. Soweit geht die décadence im Wert-Instinkte unsrer Politiker, unsrer politischen Parteien: sie ziehn instinktiv vor, was auflöst, was das Ende beschleunigt...

(ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第39節『偶像の黄昏』所収、1888年)



いやあ実にワカンネエよ、政治用語ってのは。とくにリベラルが革新側にあって、リバタリアニズムが反革新側に置かれるなんて何かの間違いじゃないか。



ところで柄谷行人の自由主義と民主主義の定義がある。



現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


柄谷は既に1990年に《自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない》、つまり「自由主義/民主主義」は、「個人/国家・共同体」の対立だとしているが、その前段も含めて示せば、次の通り。


人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。


それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。議会制は実は自由主義に根ざしている。


歴史的にいって、アテネの民主主義(デモクラシー)は貴族支配(アリストクラシー)に対立するものである。それは異質な且つ外国とつながる貴族の支配の否定である。また、それが奴隷を除外していることはいうまでもない。このデモクラシーが独裁者(僭主)を生み出すことがあるとしても、それは貴族支配とは別である。デモクラシーのみがそのような独裁者を可能にするのだから。ある意味で、プラトンのいう哲学者=王とは、そのような独裁者である。〔・・・〕

自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)


「自由主義は、資本主義の市場原理と不可分離である」とあるが、これは、岩井克人が次のように言っている意味だ。


自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


つまり資本主義は自由主義である。僕はこの観点からは完全なる反自由主義者なんだな、世界資本主義が諸悪の根源だと思っている人間だから。


マルクスの定義においては、資本主義は右翼だよ、冒頭のドゥルーズの右翼の定義を受け入れるなら。資本は自分のことしか考えないで他人を搾取する機制だから。



◼️資本制生産様式におけるベンサム主義ーー他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ーーの必然性

(資本制生産様式において)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は、実際、天賦人権の真の楽園であった。

ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.]


自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。


平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。


所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。

ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。

Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年)


功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては、これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位、個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には、いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年)

言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。

Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); (マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1845-1846 年)

この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年)


仮に意識的にはそれを知らなくても、彼らは無意識的にベンサム主義者になるーー《彼らはそれを知らないが、そうする[ Sie wissen das nicht, aber sie tun es]》(マルクス『資本論』第1巻「一般的価値形態から貨幣形態への移行」)


“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ](マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)



一般の政治学者ってのは経済にひどく弱いんじゃないかね、資本主義と自由主義が結婚している状況において、経済的観点なき自由主義なんてのは寝言さ。


それに民主主義だって、ナチの天才理論家カール・シュミットの定義なしにデモクラシー語ってもこれまた寝言だよ。



民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


※その他、私がシュミットのエキスと見なしている引用のいくらかは➡︎参照



そもそも政治学者は機能してないんだよ、この今。国際政治学者だけでなく日本の政治学者一般が(いやさらに学者という種族自体が沈没していると言ってもよい)。米ネオコンの世界資本主義がウクライナの民主主義を使って代理戦争をやってる現在、マルクスの資本主義分析とシュミットの民主主義に無知な知識人はお釈迦入りしてもらわないとな。


(資本とは自己増殖する貨幣)




不幸なことに「知的絞首刑」の対象人物が六人か七人どころじゃないから、私の平和的心が乱れっぱなしなんだ。



私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』)

Ich habe die friedlichste Gesinnung. Meine Wünsche sind: eine bescheidene Hütte, ein Strohdach, aber ein gutes Bett, gutes Essen, Milch und Butter, sehr frisch, vor dem Fenster Blumen, vor der Tür einige schöne Baume, und wenn der liebe Gott mich ganz glücklich machen will, läßt er mich die Freude erleben, daß an diesen Bäumen etwa sechs bis sieben meiner Feinde aufgehängt werden. Mit gerührtem Herzen werde ich ihnen vor ihrem Tode alle Unbill verzeihen, die sie mir im Leben zugefügt — ja, man muß seinen Feinden verzeihen, aber nicht früher, als bis sie gehenkt werden. (Heine, Gedanken und Einfälle.)