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2023年6月30日金曜日

資本とは自己増殖する貨幣

 


《資本とは自己増殖する貨幣である》(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章「移動と批判」P235)ーーこれはトラクリで何度も繰り返される資本の定義であり、何よりもまずマルクスの次の文にある。


・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)




私はこのマルクスの定式をさらに次のように分解するのを好む。







柄谷に戻れば、次のようにも言っている。


資本は自己増殖するかぎりで資本である。それは人間的「担い手」が誰であろうと、彼らがどう考えようと、貫徹されなければならない。それは個々人の欲望や意志とは関係がない。


注)マルクスが資本家を「資本」の人格的担い手として見たことは、株式会社が一般化する時期において、より重要である。そこでは、資本と経営、資本家(株主)と経営者の分離が生じる。その結果、経営者は自らをたんに複雑な仕事をする労働者と見なすようになる。 しかし、「主観的」にどう考えていようと、彼らは資本の自己増殖のために活動せねばならず、さもなければ解雇されるだろう。それはまた、「主観的」には利潤や搾取を否定している「社会主義国家」 の党官僚についてもあてはまる。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章 P320)



《資本家を「資本」の人格的担い手として見た》とは次の文にある。


この運動の意識ある担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容─価値の増殖─が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。

Als bewußter Träger dieser Bewegung wird der Geldbesitzer Kapitalist. Seine Person, oder vielmehr seine Tasche, ist der Ausgangspunkt und der Rückkehrpunkt des Geldes. Der objektive Inhalt jener Zirkulation - die Verwertung des Werts - ist sein subjektiver Zweck, und nur soweit wachsende Aneignung des abstrakten Reichtums das allein treibende Motiv   seiner Operationen, funktioniert er als Kapitalist oder personifiziertes, mit Willen und Bewußtsein begabtes Kapital. (マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節)



さて先の文で柄谷が言っていることは、われわれはみな資本主義の掌の上に乗って活動している限り、《「主観的」にどう考えていようと、…資本の自己増殖のために活動せねばなら》ない、である。私は米英ネオコンを批判することが多いが、それは彼らに資本の自己増殖運動が典型的に現れているためであり、だが、例えば、中国が、ロシアが、あるいはインドが資本主義の掌の上に乗って活動していないわけでない。欧米から世界資本主義の覇権がこれらの国に移動すればいっそう資本の自己増殖のために活動するようになるだろう。現在の中露印のーープーチンの演説に代表される《世界情勢はダイナミックに変化し、多極化した世界秩序の輪郭が形作られつつあります。多くの国や民族が、それぞれのアイデンティティ、伝統、価値観に基づいて、自由で主権的な発展の道を選びつつあります》ーーというタテマエに楽観的になることは決してできない、いずれ米ネオコンと同じ資本の増殖運動の担い手となる国が出現する。それは習近平が、プーチンが、モディがどう考えていようと関係がない。


柄谷のように『資本論』を読み込んでいるわけではまったくないが、だが資本論の冒頭の価値形態論の熱心な読み手であったのが明らかなラカンは、次のように言っている。


危機は、主人の言説ではなく、資本の言説である。それは、主人の言説の代替であり、今、開かれている [la crise, non pas du discours du maître, mais du discours capitaliste, qui en est le substitut, est ouverte.  ]〔・・・〕


資本家の言説…それはルーレットのように作用する。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、自らを貪り食う [le discours capitaliste… ça marche comme sur des roulettes, ça ne peut pas marcher mieux, mais justement ça marche trop vite, ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume.]


さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…[vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…](Lacan, Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)




このミラノ講演で示された資本の言説図にマルクス用語を当て嵌めれば次のように置くことができる。




まさにルーレット的な無限♾️の資本の循環運動である。



聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、ーーそれが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない。

Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.  (Lacan, Télévision, AE520, Noël 1973)



ラカンの言説とは社会的結びつき[lien social]を意味し、資本の言説とは資本の社会的結びつきである。この資本の社会的関係から脱却をするにはどうしたらいいのか。柄谷の、少なくとも21世紀に入って以降の思索はここに収斂すると言ってよい。それが『世界史の構造』であったり、近著の『力と交換様式』であったりする(これらの書の提起が充分に成功しているか否かは評価が分かれるだろうが)。


これらの21世紀に入ってからの仕事の理論的原点にあるのが『トランスクリティーク』に他ならず、資本の自己増殖運動に支配されている限り、世界はどうしようもなく破滅に向かわざるを得ないのを示した書であると言えるーー《“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ!”(後は野となれ山となれ!)、これがすべての資本家およびすべての資本主義国民のスローガンである[Après moi le déluge! ist der Wahlruf jedes Kapitalisten und jeder Kapitalistennation. ]》(マルクス『資本論』第1巻「絶対的剰余価値の生産」)


くりかえしていうが、資本とは G - W - G' (G+⊿G) という運動である。通俗経済学においては、資本とは資金のことである。しかし、マルクスにとって、資本とは、貨幣が、生産施設・原料・労働力、その生産物、さらに貨幣へ、と「変態していく」過程の総体を意味するのである。この変態が完成されないならば、つまり、資本が自己増殖を完成しないならば、それは資本ではなくなる。しかし、この変態の過程は、 他方で商品流通としてあらわれるため、そこに隠されてしまう。したがって、古典派や新古典派経済学においては、資本の自己増殖運動は、 商品の流通あるいは財の生産 = 消費のなかに解消されてしまう。 産業資本のイデオローグは「資本主義」という言葉を嫌って 「市場経済」という言葉を使う。 彼らはそれによって、あたかも人々が市場で貨幣を通して物を交換しあっているかのように表象する。この概念は、市場での交換が同時に資本の蓄積運動であることを隠蔽するものである。そして、彼らは市場経済が混乱するとき、それをもたらしたものとして投機的な金融資本を糾弾したりさえする、まるで市場経済が資本の蓄積運動の場ではないかのように。


しかし、財の生産と消費として見える経済現象には、その裏面において、根本的にそれとは異質な或る倒錯した志向がある。 G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」p323~)



なお、柄谷はここで《G′(G+⊿G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない》としているが、ラカンにおいて剰余価値⊿G自体がフェティシズムである。


私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)

剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

永遠にマルクスに声に耳を傾けるこの貝殻[Lacoquille à entendre à jamais l'écoute de Marx]……この剰余価値は経済が自らの原理を為す欲望の原因である。拡張生産の、飽くことを知らない原理、享楽欠如[manque-à-jouir] の原理である[la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.](Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)