人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が"価値形態"をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
ラカンのはやばやの洞察は、ソシュールやヤコブソンをしっかり読んでいたということもあるんだろうよ、『資本論』冒頭の価値形態論以上に。 |
先に述べたように、価値形態は言語的なものである。したがって、これを理解するために言語学のモデルを借りてもよい。しかし、そのようにしてただちにわかることは、言語学そのものが経済学のモデルに従っていることである。たとえば、ヤーコブソンはつぎのようにいっている。 |
《経済学と言語学の長い歴史において、この二教科を結合する問題が繰り返し生起した。 啓蒙主義時代の経済学者たちが言語学的問題に手を染めたことが想起されよう。たとえば、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーは百科全書のために語源の研究を扱い、アダム・スミスは言語の起源を論じている。 循環、交換、価値、生産と投資、生産者と消費者などの事項についてソシュールの教理へのG・タルドの影響は周知である。"動的共時態"すなわち体系内部の矛盾と、その不断の動きなどのような共通の主題が、両分野で相似の発展を遂げた。 基本的な経済学の概念が、記号学的解釈の試みに繰り返して付せられた。(中略)現在、タルコット・パースンズは貨幣を"非常に高度に特殊化した言語"、経済上の取引を"或る種の会話"、貨幣の流通を"メッセージの送達"、そして貨幣体系を"文法的・統辞的コード"として組織的に扱っている。言語学において開発されたコードとメッセージの理論を彼は公然と経済的交換に適用している。》(ヤーコブソン 『一般言語学』川本茂雄他訳) |
実際、ソシュールが言語を共時的体系(ラング)として考察しようとしたとき、経済学のモデルを使っている。「共時的」とは或る任意の瞬間を指すのではなく、一定の均衡状態を意味する。ソシュールは、それまで一つの項を体系から切り離してその変化を歴史的に考察していた言語学に対して、関係体系における一項の変化が体系全体を変え新たな体系を形成する、そして、言語の通時的な変化は体系の変化として理解されなければならない、と考えた。それは一つの均衡状態から次の均衡状態への移行である。このような考えは明らかに、スイスにいた経済学者パレートの一般均衡論から得られたものである。しかし、もしそのようなものに留まるなら、こうした言語学を経済学に再適用することは不毛な同義反復である。 ヤーコブソンがあげているような諸例はそのようなものであり、たんに新古典派経済学の言い換えにすぎない。 |
しかし、ソシュールはその先で、決定的に新古典派理論と違っている。彼は「言語には差異しかない、言語は価値である」という。このようなことは単一体系(ラング)の中ではいえない。彼が価値について語るのは、別のラングを持ってくるときである。彼の考えでは、ある語が別の体系に「翻訳」された場合に、同じ「意味」をもつと同時に、それぞれの体系における他の語との関係の違いによってその「価値」が違ってくる。 そこから彼は、シニフィアンと必然的につながる意味(シニフィエ)、あるいは内在的な意味などないということを説明している。だが、イェルムスレウが指摘したように、一つの共時的体系において考えるかぎり、シニフィアンとシニフィエは切り離せないのだ。それゆえ、複数の異なる体系を考えたときにのみ不可欠なのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章 「価値形態と剰余価値」第2節「言語学的アプローチ」p360) |
※黒字強調した箇所の原文、《At present, Talcott Parsons ... systematically treats money as a very highly specialized language', economic transactions as 'certain types of conversations', the circulation of money as 'the sending of messages', and the monetary system as 'a code in the grammatical-syntactical sense.' 》 しばしば引用してきた《すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる》の前後を含めて、ここではいくらか長く掲げる。 |
『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚安であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章P288) |
さらにマルクスの価値形態[Wertform]をめぐる叙述から一文だけ抜き出す。 |
人間が彼らの労働生産物をたがいに価値として関連させるのは、これらの物が、彼らにとって同種の人間労働のたんなる物的な外皮とみなされるからではない。逆である。 |
彼らは、彼らの異種の生産物をたがいに交換において価値として等置させることによって、彼らのさまざまな労働をたがいに人間労働として等置させるのだ。彼らはこのことを意識はしないが、しかしそうやっている。だから、価値の額に、価値とは何であるかは書かれていない。 |
Indem sie ihre verschiedenartigen Produkte einander im Austausch als Werte gleichsetzen, setzen sie ihre verschiednen Arbeiten einander als menschliche Arbeit gleich. Sie wissen das nicht, aber sie tun es. Es steht daher dem Werte nicht auf der Stirn geschrieben, was er ist. |
価値は、むしろ、どんな労働生産物も社会的な象形文字[Hieroglyphe]に転化してしまう。あとになって人間は、自らの社会的生産物の秘密をさぐろうと、象形文字の意味を解こうとする。なぜなら、使用対象の価値としての規定は、言語と同様、人間の社会的産物だからである[denn die Bestimmung der Gebrauchsgegenstände als Werte ist ihr gesellschaftliches Produkt so gut wie die Sprache]。 労働生産物は、価値であるかぎり、その生産に支出された人間労働のたんに物的表現にすぎないという後世の科学的発見は、人類の発展史上画期的なことではあるが、しかしこの発見によって、労働の社会的性格は労働生産物そのものの物的生活としてあらわれるという外観が拭いさられるわけでは、けっしてない。(マルクス『資本論』第一巻第一篇第一章第四節「単純な価値形態の総体」Das Ganze der einfache Wertform ) |
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※付記 ◼️岩井克人の「言語、法、貨幣」 |
言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。 言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。 また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。 そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。 人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。 そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年) |
◼️ジャック=アラン・ミレールの「言語、法、ファルス」 |
言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage. (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
「言語、法、貨幣」と「言語、法、ファルス」。貨幣はファルスである。 |
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン, S18, 09 Juin 1971) |