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2023年7月25日火曜日

男たちは一生、女の尻に敷かれている

 

どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男は母から完全には決して自由になれない。

Every man harbors an inner female territory ruled by his mother, from whom he can never entirely break free. (カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)

男たちは一生、女のセクシャリティによって襤褸切れ化される。男の生の最初から最後まで、どんな男もどんな女を十分には支配したことは決してない。支配は幻想である。男たちは女の尻に敷かれている[Men are pussy-whipped]。男たちはそれを知っている。〔・・・〕女は犠牲者ではない。女は奴隷ではない。女は神である。

Men are run ragged by female sexuality all their lives. From the beginning of his life to the end, no man ever fully commands any woman. It's an illusion. Men are pussy-whipped. And they know it. [...] not woman as victim, not woman as slave, but woman as goddess. (カミール・パーリア  Camille Paglia, Sex And Violence, Or Nature And Art, 1991 )



カミール・パーリアは熱心なフロイト読みであり、彼女が上で言っていることはフロイトラカンにあるのだが(➡︎泥まんじゅう作りから逃れるために」)、最近の女性はこのことをよく知ってるんだろうな、韓国のYouTuber女性の映像をいくらか見たんだが、それがテキメンだね。でも、ある意味で、日本女性よりずっとよく知っているようにさえ見えるのはなぜなんだろうな、「男なんてチョロいもんよ」度がひどく高いよ、韓国女性は。そのせいで男は女から逃げ出しているのかも、日本以上に。


韓国の合計特殊出生率は2022年に、0.78(暫定値)まで落ち込んだらしいからな。





完全な相互の愛という神話に対して、ラカンによる二つの強烈な発言がある、「男の症状は女である」、そして「女にとって、男は常に墓場 ravage だ」と。この発言は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。

誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるになるということだ。こうして、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に墓場である」。どうして墓場なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。

偶然の一致ではないのだ、女性解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層が「教養ある孤独な女」を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先達たちとは違って、この墓場に服従することを拒絶するのだから。


現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は墓場である、と。このようにして、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe『孤独の時代の愛 Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』1998年)


女らしさと男らしさの社会文化的ステレオタイプが、劇的な変容の渦中です。男たちは促されています、感情を開き、愛することを。そして女性化することさえをも求められています。逆に女たちは、ある種の《男性化への駆り立て pousse-à-l'homme》に導かれています。法的平等の名の下に、女たちは「わたしたちも moi aussi」と言い続けるように駆り立てられているのです。したがって両性の役割の大きな不安定性、愛の劇場における広範囲な「流動性」があり、それは過去の固定性と対照的です。現在、誰もが自分自身の「ライフスタイル」を発明し、自己自身で「享楽の様式と愛の様式」を身につけるように求められているのです。

Les stéréotypes socioculturels de la féminité et de la virilité sont en pleine mutation. Les hommes sont invités à accueillir leurs émotions, à aimer, à se féminiser; les femmes, elles, connaissent au contraire un certain « pousse-à-l'homme » : au nom de l'égalité juridique, elles sont conduites à répéter « moi aussi ». […] D'où une grande instabilité des rôles, une fluidité généralisée du théâtre de l'amour, qui contraste avec la fixité de jadis. L'amour devient « liquide »,[…]. Chacun est amené à inventer son « style de vie » à soi, et à assumer son mode de jouir et d'aimer. (ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010