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2022年2月2日水曜日

泥まんじゅう作りから逃れるために

 


カミール・パーリアCamille Paglia は実に勉強になるよ。彼女はニーチェやフロイト、そしてサドから大きく学んでいる。セクシャリティの根を問うためには、パーリアの『性のペルソナ』(1990年) はーー私に言わせればーー決定的書物だ。日本のフェミニストたちはパーリアを避け続けているが、彼女の言い方なら泥まんじゅう作りに過ぎない。


フロイトを研究しないで性理論を構築しようとする女たちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである[Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies](カミール・パーリアCamille Paglia  "Sex, Art and American Culture", 1992年)


他方、パーリアはラカンを馬鹿にしている。


あんたたちががラカン呼んだら、脳軟化症になるわ。If you read Lacan, [...]Your brain turns to pudding. (カミール・パーリア, "Sex, Art and American Culture", 1992年)


とはいえ、パーリアもラカンもフロイトから学んでいるので、二人の言っていることは驚くほどの類似性がある。


彼女が一番馬鹿にしているのは、フーコーだ。例えば『性の歴史』という大部の書は、自分自身の性の土台を問うことへの防衛あるいは抑圧の書に過ぎない。簡単に言えばこういう観点をパーリアはフーコーに対してもっている。実際のところ、フーコーは自らの幼年期のことをまったくというほど語っていない。そんなヤツにセクシャリティの本質がわかる筈がない、という話になる。


Camille PagliaのWikiquoteには豊富な引用がされている。手始めに最低限このくらいは読んどけよ、セクシャリティやフェミニズムについて語りたいなら。パーリアにすべてがあるとは言わないでおくが、現在のフェミニズム、特にポリコレフェミイデオロギーのマヌケぶりを認知するには彼女の書は最強だね。それはもちろんセクシャリティの根を問うことをしてないアンチフェミ男のマヌケぶりも含めてだ。

………………


※参考

★①

結婚における男の支配は社会的幻想である。〔・・・〕すべて結婚の情感的核には、母と息子のピエタがある[Male mastery in marriage is a social illusion [...]. At the emotional heart of every marriage is a pietà of mother and son]. (カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)


quoad matrem(母として)、つまり女なるものは、母として以外には性関係へ入ることはない[quoad matrem, c'est-à-dire que La femme n'entre en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que la mère ](Lacan, S20, 09 Janvier 1973)

男は女になど興味ない、もし男が母をもっていなかったら。[un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère. ](Lacan , Conférences aux U.S.A, 1975)




★②

どの男も、母に支配された内部の女性的領域に隠れ場をもっている。男は母から完全には決して自由になれない。

Every man harbors an inner female territory ruled by his mother, from whom he can never entirely break free. (カミール・パーリア 『性のペルソナ』1990年)


(原母子関係には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に[une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition.] (ラカン, S17, 11 Février 1970)


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe.] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 26 novembre 2008)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。そしてこれは女への隷属として存続する。Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her, die sich später als Hörigkeit gegen das Weib fortsetzen wird. (フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)




★③

男たちは一生、女のセクシャリティによって襤褸切れ化される。男の生の最初から最後まで、どんな男もどんな女を十分には支配したことは決してない。支配は幻想である。男たちは女の尻に敷かれている[Men are pussy-whipped]。男たちはそれを知っている。〔・・・〕女は犠牲者ではない。女は奴隷ではない。女は神である。


Men are run ragged by female sexuality all their lives. From the beginning of his life to the end, no man ever fully commands any woman. It's an illusion. Men are pussy-whipped. And they know it. [...] not woman as victim, not woman as slave, but woman as goddess. (カミール・パーリア  Camille Paglia, Sex And Violence, Or Nature And Art, 1991 )


一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](ラカン, S23, 16 Mars 1976)




★④

大いなるなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である[It is not male hatred of women but male fear of women that is the great universal.](Camille Paglia , No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality, 1994)


原始時代の男がタブーを設置するときはいつでも、或る危険を恐れている。そして議論の余地なく、この忌避のすべての原則には、一般化された女性の恐怖が表現されている。おそらくこの恐怖は、次の事実を基盤としている。すなわち女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものであり、それゆえ見たところ敵意に満ちた対象だと。

.Wo der Primitive ein Tabu hingesetzt hat, da fürchtet er eine Gefahr, und es ist nicht abzuweisen, daß sich in all diesen Vermeidungsvorschriften eine prinzipielle Scheu vor dem Weibe äußert. Vielleicht ist diese Scheu darin begründet, daß das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig und darum feindselig erscheint. 

男は女によって弱体化されることを恐れる。その女性性に感染し無能になることを恐れる。性交が緊張を放出し、萎縮を引き起こすことが、男の恐怖の原型であろう。性行為を通して女が男を支配することの実現。男を余儀なくそうさせること、これがこの不安の拡張を正当化する。こういったことのすべては古い時代の不安ではまったくない。われわれ自身のなかに残存していない不安ではまったくない。Der Mann fürchtet, vom Weibe geschwächt, mit dessen Weiblichkeit angesteckt zu werden und sich dann untüchtig zu zeigen. Die erschlaffende, Spannungen lösende Wirkung des Koitus mag für diese Befürchtung vorbildlich sein und die Wahrnehmung des Einflusses, den das Weib durch den Geschlechtsverkehr auf den Mann gewinnt, die Rücksicht, die es sich dadurch erzwingt, die Ausbreitung dieser Angst rechtfertigen. An all dem ist nichts, was veraltet wäre, was nicht unter uns weiterlebte. (フロイト『処女性のタブー』1918年)


忘れてはならない。太古の[archaïque]という語をフロイトは使っていることを。太古の分析 [l'analyse à l'archaïque]とは、厳密にわれわれの根の分析であることを。原点としては、われわれはみな原始人である[nous sommes tous des primitifs.]  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)

「太古の遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)



★⑤

日常経験において、男性器は輝かしいポジション、つまり伝統的図像学における勃起したファルスの表象を見出すことは稀である。消耗が男性のセクシャリティの日常の役柄だ。オーガズム、つまり期待された享楽に至るやいなや、勃起萎縮が起こる[survient la détumescence de l'organe]。他方、女性の主体はどんなインポテンツにも遭遇せず、男性のように性交において去勢をこうむる器官に翻弄されずに、享楽を経験する。フロイトの女が去勢されているなら、ラカンの女は何も欠けていない。《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…あれは何も欠けていない[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ]》(20 Mars 1963)。ラカンは不安セミネールⅩではこう言った。〔・・・〕


ラカンは明瞭化したのである、ファルスはたんにイマージュ、力のイリュージョン的イマージュ[l'image illusoire de la puissance]に過ぎないと。女性の主体は男が喜ぶようにこの囮の虜[captif de ce leurre]になりうるかもしれない。だが実際は、欲望と享楽に関して、男性の主体のほうが弱い性なのである。《女は享楽の領域において優越している[La femme s'avère comme supérieure dans le domaine de la jouissance ]》(S10, 20 Mars 1963). (ジャン=ルイ・ゴーJean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)


宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。歯の生えたヴァギナ(ヴァギナデンタータ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくるから[ The femme fatale is one of the most mesmerizing of sexual personae. She is not a fiction but an extrapolation of biologic realities in women that remain constant. The North American Indian myth of the toothed vagina (vagina dentata) is a gruesomely direct transcription of female power and male fear. Metaphorically, every vagina has secret teeth, for the male exits as less than when he entered.]〔・・・〕


社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。[Sex as a natural rather than social transaction, therefore, really is a kind of drain of male energy by female fullness. Physical and spiritual castration is the danger every man runs in intercourse with a woman. Love is the spell by which he puts his sexual fear to sleep.]


女の潜在的吸血鬼性は社会的逸脱ではなく、彼女の母なる機能の発展にある。

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母への回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ[Woman's latent vampirism is not a social aberration but a development of her maternal function, for which nature has equipped her with tiresome thoroughness. For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature.](カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年)