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2022年2月1日火曜日

OLの失態による烈しい喜びの衝動

 オープンレター派と反オープンレター派はどっちも拷問のやり合いだよ、


人はよく頽廃の時代はより寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。しかし、言葉と眼差しによる危害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる[aber die Verwundung und Folterung durch Wort und Blick erreicht in Zeiten der Corruption ihre höchste Ausbildung](ニーチェ『悦ばしき知』23番、1882年)



拷問ってのは人間の本性だ、「教養を積んだ」学者たちがそれから免れている筈はない。



過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということである。 (PAUL VERHAEGHE, THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

我々は基本的に皆、邪悪でエゴイスティック、嘔吐感を与える生き物である。拷問を例にとろう。私はリアリストだ。私に娘があり誰かが彼女を誘拐したとする。そして私は誘拐犯の友人を見出したなら、私はこの男を拷問しないだろうなどとは言い得ない。(ジジェク、My friends call me Fidel、2016年)




おそらくアンチオープンレター側による「拷問」は、フェミニズムという支配的イデオロギーへの対抗衝動によって駆動されているところが多いんじゃないかね。


私の身辺にある人間がいる。私はその人を憎んでいる。だからその人が何かの不幸にもで遭えば、私の中には烈しい喜びの衝動が動く[in mir eine lebhafte Regung zustande kommt, mich zu freuen, wenn ihr etwas widerfährt]。ところが私の徳義心は、私自身のそういう衝動を肯定しようとしない。私はあえて呪いの願望を外に出すことをしかねている。


さて偶然その人の身の上に何か悪いことが起こったとき、私はそれに対する私の充足感を抑えつけ、相手を気の毒に思うことを口にも出すし、自分の気持にも強制するであろう。誰にもこんな経験はあるにちがいない。


ところがその当の人間が不正を犯してそれ相当の罰をこうむるというようなことでも起ると、そのときこそ私は、彼が正当にも罰をこうむったことに対する私の充足感を自由に外に出すことができる。そして、彼に対して愛憎を持っていない多くの人々と自分もこの点では同意見だとはっきり口外する。


しかし私の充足感はほかの人たちのそれよりも一段と強いものであることを、私は自分自身のうえに観察しうる。私の充足感は、情念動出を内心の検閲によってそれまでは妨げられていたが、今や事情が一変してもはやそれを妨げられることのなくなった私の憎悪心という源泉からエネルギーの補助を受けているのである。


こういう事情は、反感をいだかれている人物であるとか、世間から好かれていない少数党に属する人間であるとかがなんらかの罪を己が身の上に招くようなときには普通世間でよく見られるところのものである。こういう場合、彼らの受ける罰は彼らの罪に釣り合わないのが普通で、むしろ彼らに対して向けられていたが外に出ることのなかった悪意プラス罪[Verschulden vermehrt um das bisher effektlose Übelwollen]というものに釣り合うのである。


処罰者たちはこの場合明らかに一個の不正を犯す。彼らはしかし自分たちが不正を犯しているということを認め知ることができない。なぜならかれらは、永いこと一所懸命に守ってきた抑制が今こそ排除されて、彼らの心の中には充足感が生まれてきて、そのために眼が眩んでしまっているからである。


こういう場合、情動はその性質からすれば正当なものであるが、その度合からすれば正当なものではない。そして第一の点では安心してしまっている自己批評が、第二の点の検討を無視してしまうのはじつに易々たることなのである。扉がいったん開かれてしまえば、もともと入場を許可しようと思っていた以上の人間がどやどやと入りこんでくるのである。


神経症患者における、情動を湧起せしめうる動因が質的には正常だが量的には異常な結果を生むという神経症的性格の著しい特色は、それがそもそも心理学的に説明されうるかぎりではこのようにして説明されるのである。しかしその量的過剰は、それまでは抑制されて無意識のままにとどまっていた情動源泉に発している。そしてこれらの源泉は現実的動因と連想的結合関係を結びうるものであり、また、その情動表出には、何の要求をも持たないところの、天下御免の情動源泉が望みどおりの途を拓いてくれるのである。


抑制を加える心的検問所と抑制を受ける心的な力とのあいだにはいつも必ずしも相互的妨害の関係が存するばかりではないということにわれわれは気づかされるわけである。抑制する検問所と抑制される検問所とが協同作業をして、相互に強化しあい、その結果ある病的な現象を生じせしめるというようないくつかの場合も同様注目に値する。 (フロイト『夢解釈』第6章H「夢の中の情動」第5節)



重要なのは現在のフェミニズムを問うことだよ。



ジェンダー理論は性差からセクシャリティを取り除いてしまった。ジェンダー理論家は性的実践を語り続けながら、性を構成するものへの問いを止めた[Gender theory [...] it removed sexuality from sexual difference. While gender theorists continued to speak of sexual practices, they ceased to inquire into what constituted the sexual; ](ジョアン・コプチェク Joan Copjec "Sexual Difference" 2012年)

驚くべきは、現代ジェンダー研究において、欲動とセクシャリティにいかにわずかしか注意が払われていないかである[It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies.](ポール・バーハウ  Paul Verhaeghe「ジェンダーの彼岸にある欲動 drive beyond gender 」2005年)



前回記したように、欲望なんか話題にしてもセクシャリティの核を外してしまう。重要なのは欲動だ。欲動とは身体、欲動の身体だ。


エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)



他方、欲望は言語だ。


欲望は自然の部分ではない。欲望は言語に結びついている。それは文化で作られている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir ne relève pas de la nature : il tient au langage. C'est un fait de culture, ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)