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2023年8月6日日曜日

健康のための「文学者やら哲学者やら」への嘲弄


しばしば精神分析を口癖のように批判する文学者やら哲学者やらがいるがね、精神分析の根にある対象は幼児期の出来事なんだよ、


幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben](フロイト『精神分析概説』草稿、第7章、1939年)


で、《幼児期は成人言語以前》(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)であり、幼児期の記憶は「身体の記憶」なんだ。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕

幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)


つまり、失われた時の身体の記憶はレミニサンスするんだ、これが精神分析の基盤だよ。

フロイトはこの身体の記憶を「身体の出来事=トラウマ」、あるいは固着と言ったが、これが人間の不変の個性刻印なんだ。


病因的トラウマ、この初期幼児期のトラウマはすべて五歳までに起こる[ätiologische Traumen …Alle diese Traumen gehören der frühen Kindheit bis etwa zu 5 Jahren an]〔・・・〕

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


この身体の出来事の作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


この固着は、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)



そしてこの身体の出来事としてのトラウマの別名は、異者としての身体だ。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


幼児期の身体の出来事の記憶は異者身体のように作用してレミニサンスするんだ。これが不変の個性刻印の反復強迫であり、別名「永遠回帰」だよ。


同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)



あるだろ、《人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.]》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)が?


あるだろ、例えば、女蜘蛛の永遠回帰が?


月光をあびてのろのろと匍っているこの蜘蛛[diese langsame Spinne, die im Mondscheine kriecht]、またこの月光そのもの、また門のほとりで永遠の事物についてささやきかわしているわたしとおまえーーこれらはみなすでに存在したことがあるのではないか。

そしてそれらはみな回帰するのではないか、われわれの前方にあるもう一つの道、この長いそら恐ろしい道をいつかまた歩くのではないかーーわれわれは永遠回帰[ewig wiederkommen]する定めを負うているのではないか。 (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「 幻影と謎 Vom Gesicht und Räthsel」 第2節、1884年)


母なるメス蜘蛛は、初期幼児期のわれわれに身体の上に、一生消えない刻印してるからな、ーー《夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである[ die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter]》(フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)




要するに、あれら「精神分析を口癖のように批判する文学者やら哲学者やら」は、このあたりのことーーニーチェやプルーストにその起源があることーーがまったくわかってねえんだな、で、連中は、その脳髄のなかにあるらしい「イメージとしての精神分析」を鸚鵡のようにパクパク繰り返し非難してんだ。ボクが奴等をときに嘲弄するのは何よりもまずこのせいだよ。



あれらキャベツ頭を垣間見たら、健康のためにそのくらいはやっとかないとな


抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit: alles Unbedingte gehoert in die Pathologie.(ニーチェ『善悪の彼岸』154番、1886年)