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2023年8月5日土曜日

エスの核は超自我


質問をもらっているが、確かに、なぜ死の欲動は超自我の欲動[参照]であって、なぜエスの欲動ではないのか? これは一見ひどく奇妙であり、私もその内実を掴むのに長いあいだかかった。

これを把握するために最も重要なのは固着概念である。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat.]〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


超自我の設置に伴う欲動の固着を通して、マゾヒズム的自己破壊欲動としての死の欲動が生まれる。

だが固着とは何か。


ラカンがフロイトの遺書と読んだ最晩年の論にこうある。


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


固着の残滓とあるが、上にあるように「固着の置き残し」のことである。どこに置き残すのか、そして何を? 


まず固着はエスの核に置き残されるのである。


人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年)


ーーここに記されているのは、原初のエスの或る部分は、発達に伴って自我に受け入れられるが、別の部分はエスの核に置き残されるということであり、これが欲動の固着(リビドーの固着)である。


この意味で、成人にとってのエスとは実際はエスに置き残された固着であり、これが事実上、超自我の核なのである。別の言い方をすれば、後年の人生から遡及的にみれば、エスの核の実態は超自我である。なぜなら欲動の固着としての超自我のみがエスに置き残され、それ以外のエスの他の部分は自我に取り入れられているのだから。


繰り返せば、固着の残滓[Reste der Fixierung]=固着の置き残し[zurückbleiben der Fixierung]であり、この「の」は同格の「の」である。


そしてこの固着の置き残しの別名を異者(異者としての身体)と言う。


抑圧の第一段階ーー原初に置き残された欲動[primär zurückgebliebenen Triebe]ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär zurückgebliebenen Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)

抑圧されたものは異者としての身体[Fremdkörper]として分離されている[Verdrängten … sind sie isoliert, wie Fremdkörper] 〔・・・〕抑圧されたものはエスに属し、エスと同じメカニズムに従う[Das Verdrängte ist dem Es zuzurechnen und unterliegt auch den Mechanismen desselben]。〔・・・〕

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand gehoben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



さらにこの「固着の置き残し」としての異者としての身体[Fremdkörper]の名がエスの欲動蠢動 [Triebregung des Es]、あるいは無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]である。


自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体の症状[Symptom als einen Fremdkörper]と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」であり、これは通常の環境では、自我の自由に動く機能によって排除されていて意識されないだけである[Triebregung  … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年、摘要)


ーージャック=アラン・ミレールはラカンから引き継いだ最初期のセミネールで、《超自我と原抑圧の一致がある[il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire]. 》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)と言っている、この意味は超自我も原抑圧も欲動の固着だということである。さらに状の享楽は超自我の核である[La jouissance du symptôme …C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi]》. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)としているが、この症状の享楽は上に引用した『制止、症状、不安』の固着の残滓としての「異者身体の症状」を示している、《残滓…現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[reste…une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ]》(J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)。すなわち異者としての身体の症状は超自我の核でありつまり「エスの欲動は超自我の核」である。別の言い方をすれば、《超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion.]》 (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)となる。



フロイトは『快原理の彼岸』(1920年)の段階では、エス概念がなかったので「反復強迫」とだけ言っているが、先の異者身体にかかわる《エスの欲動蠢動》としての《無意識のエスの反復強迫》が何よりもまず死の欲動である。


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)



こういった文脈のなかで現代ラカン派の次の簡潔な定義がある。


死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)

タナトスは超自我の別名である[Thanatos, which is another name for the superego ](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2016)



ーー主流ラカン派においてこの簡潔な定義に至るまでには、長い道のりがあった。そのいくつかを主にミレールを引用しつつ上に示した。だがミレール派すなわちフロイト大義派のセミネール出席者たちにおいてさえも十分に掴んでいる人はいまだ少ない。事実上のミレール派ナンバースリーのゲガーンGuéguenが2016年になって上のように念押ししているのは、この消息がある。


要するに、これは巷間に流通している通念とはひどく異なっているのでーー大半のフロイトあるいはラカン研究者による解説書にも、現在に至るまでこんなことは何も書かれていない筈であるーー、一般にはなかなか受け入れ難いだろうが、エスの核は超自我なのである。少なくとも私が、現代ラカン派の注釈を通して、フロイトを読み直した限りでそうなる。


ラカン自身の次の三文からもそうなる。


超自我はマゾヒズムの原因である[le surmoi est la cause du masochisme],(Lacan, S10, 16  janvier  1963)

享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である[La pulsion de mort c'est le Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)


すなわち超自我は死の欲動の原因である。結果ではなく原因である。



さらに次の四文からはどうか。


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


これらを組み合わせてまとめて言えば、超自我は現実界の母、かつ固着の異者身体に関わるとなる。これ自体、時期の異なるラカンを真に読み込まないと容易に掴めないが、これが先のジャック=アラン・ミレールが事実上、言っていることである。



…………


※付記


そもそもフロイトにとってリアルな欲動は、自己破壊欲動としてのマゾヒズム的欲動である。

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)


先に示したように、このマゾヒズム的自己破壊欲動こそ死の欲動であり、さらにマゾヒズムは比較的早い時期の『性理論』の段階で既に固着である、ーー《無意識的なリビドーの固着は…性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]》(フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)


なおマゾヒズム的固着の原点にあるのは、幼児期初期の身体の世話役である《母へのマゾヒズム的固着[masochistische Fixierung an die Mutter]》であることは、「マゾヒズムとサディズム」に示してある。


さらにこの母が超自我なのである。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


※幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]=《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)




以上、リアルな欲動は「超自我なる母へのマゾヒズム的固着」に伴う死の欲動であり、フロイトの記述の表面に出ているエロスとタナトスの欲動二元論は、より深く読み込むと「死の欲動一元論」なのである。これがラカンが次のように言っている意味である。


すべての欲動は実質的に、死の欲動である[toute pulsion est virtuellement pulsion de mort](Lacan, E848, 1966)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous  la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973)