この寺沢みづほさんの中上健次論はとってもいいな、
最近ある必要に迫られて,ほぼ 30年ぶりに中上健次の代表作を読むことになった。30 年ぶりと言うと,「日本文学専攻ではないにしろ,文学研究者を標榜する者としてずいぶん怠慢だ」と言われかねない。しかし中上作品は,作者個人の経験を反映した人間関係の葛藤が極度に錯綜し,さらに極度に濃密であって,愛読書としてたびたび読み返すには重すぎるものであり,読み返す必要が生じるまで約 30 年放置したままであった。しかしこのブランクは無意味ではなかった。以前に中上作品を読んだ時には,読み通すだけで精一杯で,作品の迫力に圧倒されたまま,迷路にはまったままのような読後感覚から先に進むことはなかった。しかし今回読み返すと,私の中の 30 年の経験が大きな手助けと手掛かりになったのであろうが,中上の世界全体がかなり明晰に見えるようになってきた。 |
(寺沢みづほ「中上健次とウィリアム・フォークナー ―比較から浮き彫りになるそれぞれの実像の深部―」2015年、PDF) |
「とってもいい」というか、同じような心境だね、「ほぼ 30年ぶりに中上健次の代表作を読むことになった」なんて。私の場合は、「ある必要に迫られ」たわけではなく、ある偶然によるとはいえ。
寺沢さんはきっと「美女」なんだろうよ、ネット上には残念ながら写真が落ちていないが、次のような経歴の方のようだ。 |
寺沢みづほ(1951年生まれ)は、アメリカ文学者、早稲田大学教授。 長野県飯田市生まれ。1973年、お茶の水女子大学文教育学部英文科卒業、1976年、東京大学大学院人文研究科英語英文学修士課程修了。1981年、同大学大学院博士課程単位取得退学、和光大学人文学部専任講師。1985年、同大学助教授。1990年、早稲田大学教育学部英語英文学科専任講師、1991年助教授、1996年教授。 |
何よりもまず、彼女がフォークナー研究者というのがとっても気に入ったね。 |
昭和 43 年は,中上健次にとって,文学上の一つの転機となった年ではないかと思われる。……この年……柄谷行人と出会い,以後月に一度か二度は会うようになって,ウィリアム・フォークナーの『アブサロム,アブサロム!』を特にすすめられて読んだことも,のちの健次の文学に影響をあたえたとしても,この時点ではことさらに取り上げる必要はないだろう。 問題は,[この同じ年に]親族のあいだで殺人事件が起きたことである。……故郷の親族の間でその殺人事件は起きた。被害者は二番目の姉の夫の兄,加害者は被害者の妹の夫。義兄を義弟が刺し殺したのだ。(高山文彦『エレクトラ: 中上健次の生涯』2007年) |
寺沢さんは高山文彦の『エレクトラ』に依拠しつつ、次のように記している。 |
中上は,「誕生時の戸籍上の 父親,生物学上の父親,母親の再婚入籍に伴い,連れ子である中上を養子とした義理の父親」と 3人の父親を持つことに象徴されるように,極度に「込み入った家族関係」の中に生い育った人間で あり,それは親子関係のみならず,父親が違う兄や姉との間の激しい愛憎関係,義父側の癖の多い親戚たちや,姉の姻戚に繋がる親戚たち―上記の殺人事件はここで起きた―等々,もはや言葉では説明しようがなく,系図と首っ引きでないと把握しようがないほどに込み入った親族たちとの深い愛憎関係に取り囲まれていた。中でも中上が 12 歳の時に首吊り自殺した,父親が違う 12 歳違いの長兄のことは中上の心に深い傷をつけ,「その日から健次が恐れたのは,自分と行平[兄の実名]が兄弟であることを世間に知られるのではないか,ということだった」(同上書,47)ため, 当時小学校の教師から新聞記事にあった自殺した若者は君の兄か,と聞かれて,否認し,「このときの否認が健次の心の奥底にトラウマとなって堆積し,やがて多くの作品の主題になっていく」 (同上書,48)。〔・・・〕 |
中上の母は,夫との間に 5 人の子供をもうけていたが,上は 10 歳,下は乳飲み子に至る 5 人の子供を残したまま,夫は戦争末期の1944年に結核で死去してしまう。残された妻は,5 人の子供を食べさせるために行商を始め,慣れない行商,家事,アメリカ軍による空襲,地震,敗戦,さらには食糧不足と,ありとあらゆる難事と苦闘して戦争末期から終戦後を必死に生き抜く。その間,一番下の子供を死なせている。その苦労の中,堅気の人間には入手困難な闇物資を,行商用にも子供たち用にも調達して来てくれる男と知り合い,まだ 20 代後半の若さで,一人で 5 人(途中から 4 人)の子供を食べさせるだけで必死だった彼女は,この男に惹かれ,彼を頼れると感じ,また子供たちもこの男に馴染んだため,結婚を前提に同棲し,やがて身籠った(この時に身籠られたのが後の中上健次である)。しかし妊娠発覚から間もなく,違法な博打と喧嘩傷害の罪で,男は懲役 3 年の刑で服役することになる。服役までは許容していた母だったが,やがてこの男が,自分以外の 2 人の女(つまり合計 3 人の女)をほぼ同時に孕ませていることを知り,絶望を感じ,もはや中絶が不可能な時期に至った大きい腹を抱 えて刑務所まで面会に行き,男に絶縁宣言をする。こうして中上は私生児として生まれ(1946 年), 母の亡夫の姓を当初は名乗ることになる。やがて母は,妻を失って一人の息子を抱えている別の男と知り合い,恋愛関係になる。母親が行商や男との逢引きをしている間,幼い健次の面倒は次姉が見ていた。男の側でも女の側でも,親族一同が反対をする中で,この男女が共に暮らす段階に漕ぎつけることは大変であり,「共に一人しか連れ子をしない」という厳格な五分五分の条件でようやく周囲を説得して同棲に至った(1953 年)が,1962 年に入籍するまでさらに 9 年かかっている。 この年月は,健次にも,異父兄姉にも,多大な葛藤を与えることになった。母は,同棲を始める時に,一番幼い健次だけを連れて家を出て,4 人の異父兄姉は自立できるか自立間近だという理由をもって,家に残した。健次は,母の亡夫の姓を名乗りながら,母の同棲開始によって兄弟とも切り離され,さりとて身分が安定するわけでもなく,母の入籍までの 9 年間は私生児としての姓のままであったし,9 年後の母の入籍に伴って連れ子の健次も養父の姓に変わるという不安定さを経験しなければならなかった。中上の場合,父親に関しては,自分の帰属場所を喪失していながら,母親に関しては帰属感が濃密にありすぎたと言えるだろう。 |
一方,残された異父兄姉も稀有な悲惨さを味わう。健次と 12 歳年が違う長兄は,若くしてアルコール中毒になって,母親に見捨てられた恨みで,泥酔しては,健次と母が住む家に包丁や斧を持って押し掛け,「二人を殺してやる」と怒鳴って威嚇することが頻繁にあった(母殺しと兄弟殺しの禁忌)。しかし,兄は母と健次を殺す前に自分を殺してしまう―兄が 24 歳の時の 3 月 3 日に 自宅で縊死自殺した。自分の命を頻繁に脅かし,自分に屈辱を与え続けていた兄が死んだことで, 健次は当初は解放感と勝利感を味わったが,それが「トラウマとして心の奥底に堆積し,やがて多くの作品の主題になってゆく」。健次を取り巻く経済状況を見ると,新宮に住み続けた身内である養父とその一族も,中上の次姉の一家も皆土建業であり,高度経済成長の時期に経済的にはかなり裕福になる。〔・・・〕 |
中上は,1968 年にフォークナーを知ることによって,それまで眼をそむけてきた自分の世界を凝視し始め,フォークナーにならって,故郷の新宮を舞台にした サーガを創造する決意を固める。フォークナーを知ったとほぼ同じ時期に,身内同士の間で殺人事件が起こり,この 2 つの衝撃が中上の文学を決定づけることになる。この時の中上の気持ちに言及 した,高山による伝記の部分を引用してみよう。 |
おそらく健次にとって,姉の嫁ぎ先で義兄が殺されたことへのおどろきよりも,義兄を刺殺したのが義弟であったという悲しみの方が深かったのではないか。親族の間でいつかこのようなことがきっと起きると,こころのどこかで予想していたのではないか。事件を聞いて,それを予想していた自分に気づいて,はじめて一族の血について深く思いをめぐらせたのではないか。…… 久堀の家[殺人事件が起こった家]で起こったことは,むかし野田の家[母が中上の義父, および幼い中上と暮らしていた家]で起こっても不思議ではなかった。兄の行平[中上の長兄] が酔狂のあげくに七郎[義父]を刺す。母を刺す。自分を刺す。いや,と健次は思う。自分が 留造[中上の生物学上の父親]を刺す。二人の義弟を刺す。久堀の義弟がしたことと,どれほどの差異があるのか。彼には,久堀の事件はあの一家だけに起きた事件とは考えられなかったはずだ。死んだ行平のことを思うと,彼は父殺しや母殺しの衝動にかられる。父母とは故郷のことである。自分を生んだ故郷を,この世から消滅させてやりたくなる。 そう考えてみると,久堀事件というのは,ドラッグと学生運動と文学に流れていた健次に, はじめて一族の血の秘密を凝視させ,文学の中心に彼を降り立たせた事件として,見過ごすこ とのできない意味を持っている。(『エレクトラ』,161–162) |
自分の血を凝視する中上の文学,故郷のサーガを書く文学は,このようにして始まった。 |
いやあ勉強になった、高山文彦の『エレクトラ』の引用も含めて。それとなしに感じてはいたことだが、それがあらためて鮮明化されて。