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2023年9月10日日曜日

この男は私の敵に違いない

 

前回引用した柄谷行人が中上健次にフォークナーをすすめたという話は、直近の柄谷も言っているのだな、今ごろ気づいたが。とってもよい話なのでここに備忘として掲げる。


◼️落選がもたらした中上健次との出会い:私の謎 柄谷行人回想録⑦  2023.08.28

〔・・・〕

――この頃には、群像新人文学賞評論部門に応募しています。「〈意識〉と〈自然〉―漱石試論」で受賞に至った69年は3度目の応募だったと聞いています。最初は、「表現論序説」。その次が「〈批評〉の死」というタイトルで、最終選考まで残っています。


柄谷 当時の文学新人賞で批評部門があったのは、群像新人賞だけだったんじゃないかな。他にないから、ここに投稿したわけです。書いた内容は忘れたけど、「〈批評〉の死」の方は何となく記憶にあるね。たぶん理論的なものだったと思う。しかし、面白いのはむしろ、その落選がきっかけで、中上健次に出会ったことですよ。


――盟友関係になるお二人ですが、お互いデビュー前ですね。


柄谷 そうです。68年の群像新人賞で最終選考まで残って落選した後、遠藤周作に呼び出されたんです。当時、遠藤さんは売れっ子の作家でしたが、「三田文学」の編集長を引き受けたんですね。新宿の紀伊國屋書店ビルの4階あたりに編集室があった。行ってみると、そこに中上がいた。もちろん、そのときには誰だか知らなかったけどね。


――68年だと、柄谷さんは27歳、中上さんは22歳の年ですね。遠藤さんとはそれ以前に知り合っていたんですか?


柄谷 いや、面識はなかった。後には、けっこう仲良くなりましたけどね。実は遠藤さんは、少年時代阪神間に住んでいたことがあって、学校も灘中を出ている。だから僕と同郷といえば同郷なんです。


話を戻すと、遠藤さんは僕らを呼び出して「種を明かせば」という感じで事情を話し出した。要するに、「三田文学」の編集長として、どうすれば苦労せずにいい書き手を見つけられるか、知恵を絞ったんだね。そこで「群像」(文芸誌)の編集部に相談して、「新人賞に落ちた作品を回してくれ」と頼んだという。そして、落選作を読んで、評論から僕を、小説から中上を選んだ。


――最終選考作とはいえ、さすがの目利きですね。


柄谷 一応、読んだんでしょうね。そして、それを「三田文学」に載せたいといってきた。しかし、僕は即座に断りました。なぜかというと、もう次の応募作を書いていたので、その前に変なことをしたくなかったから。僕がその部屋を出て、廊下でエレベーターに乗ろうとしていたとき、中上が追いかけて来たんです。それで、ちょっと下の喫茶店で話していこう、ということになった。


僕が先に断らなかったら、中上は掲載を承諾したかもしれないね。そのあと、お互いに自己紹介した。彼は「文芸首都」(中上が参加していた同人誌)とかの話をしたと思う。そこに太宰治の娘(津島佑子)がいる、ということを自慢げに話していたのを覚えています。


――最初に会ったときの中上さんの印象は?


柄谷 あんな様子ですよ(笑)。年齢で言うと、僕が5つ上。生意気だけど、結構いい奴だなと思ったんですよ。そういう初対面だった。


日本のフォークナーはすでにいた


――2人の対談「文学の現在を問う」(「現代思想」1978年1月号、『柄谷行人中上健次全対話』所収)で、中上さんが出会いを振り返っていますが、遠藤周作という「大先輩」に会って、「会えてよかった」と思っている隣で、柄谷さんがポリポリせんべいをかじっていたと語っています。


柄谷 せんべいのことは覚えてないな(笑)。ただ、以後、月に1回ぐらい会うようになりました。当時は僕もひまだったからね。2人で喫茶店に行ったり、中上が家に来たりして、何時間でも話しましたね。当時の僕はたばこもやらなかったし、酒もそんなに飲まなかった。


――中上さんもまだ羽田空港で働く前で、決まった仕事をしていなかったんでしょうか。


柄谷 いや、働いてたよ。本を読んで、文章を書いていたんだから。それはマメにやっていたと思う。遊んで暮らしていたわけじゃない。もっとも、文学は遊びみたいなものだと思われていたし、「小説なんか読みさらして」なんて言われていたくらいだけどね。



――当時はどんな話を?


柄谷 文学や思想の話ですよ。出会って間もない頃だと思うけど、僕は中上に「フォークナーを読め」と言った。


――なぜフォークナーをすすめたんですか?


柄谷 僕は大学院でアメリカ文学専攻したとき、大橋健三郎(日本を代表するフォークナー研究者で知られるアメリカ文学者)のゼミにいたからね。フォークナーはノーベル賞をもらった後まもなく、1955年に来日したんだけど、そのとき案内したのが大橋さんだったんですよ。フォークナーは、東京の他にどこか行きたいところがあるかを聞かれて、自分の故郷であるミシシッピーに当たるような場所があれば行ってみたいと答えたんだって。そのとき、大橋さんは長野県をすすめた。僕は後でその話を聞いて、大橋さんに「南部だとしたら、長野よりも九州のどこかとか、紀州のどこかがよかったんじゃないですか」と言ったことがあった。


――フォークナーが描いたアメリカの南部に近いと感じたわけですね。


柄谷 そういう経験があったから、中上が新宮出身だと聞いて、「フォークナーを読め」と言ったのかも知れない。ところが、それから3カ月くらい経ったころ、中上が僕に向かって、「俺は日本のフォークナーになる」と宣言した。どの作品を読んだかわからないけど、これはもう自分にぴったりだと思ったんだろう。


――当時の中上さんは、大江健三郎の影響が非常に強い作品を書いていましたよね。


柄谷 そうそう。大江そのままだった。だからこそ、ちょっとまずいんだ。実は、大江さんに関して当時僕が気づかなかったことが一つある。「谷間の村」(大江が故郷の愛媛県内子町をモデルにして作中で描いた場所)は、フランス文学から着想したのではないか、と何となく考えていたのです。


――大江さんは東大仏文で、渡辺一夫のもとでフランス文学を学んでいますからね。


柄谷 ラブレーとか、フランスにおいて該当するような作家がいるのかなと思っていた。だけど、彼が影響を受けていたのは、実はフォークナーだったんです。大江の「谷間の村」は、フォークナー作品のイメージにもとづいていた。


――大江さんの小説にたびたび登場した「谷間の村」は、生まれ育った愛媛の村がモデルになっています。一方で、フォークナーには、自身の故郷をモデルにした「ヨクナパトーファ郡」を舞台にした一連の作品「ヨクナパトーファ・サーガ」があります。


柄谷 僕が、大江さんがフォークナーを読み込んでいることを知ったのは、90年代になってからです。アメリカで会ったとき、彼自身から聞いた。僕は、フランス文学からどうやって大江的文学が出てくるのか、それらがどう繋がるのかなと不思議に思っていたから、なるほどそうか、と思った。そうすると、僕が中上に「フォークナーを読め」と言って、彼が「俺は日本のフォークナーになる」というのはね、ちょっとまずいでしょ。


――すでに1人先行している、と。


柄谷 しかも先行していたのは、中上が一番意識していた相手だった。僕は大江健三郎がフォークナーの影響を受けたとは思わなかったから、中上に間違った暗示を与えてしまったかもしれない。


――でも、フォークナーを読まなかったら、新宮を舞台にした『岬』や『枯木灘』、『千年の愉楽』といった作品は生まれなかったかもしれないですよね。


柄谷 それはそうです。他にもそういうことがあったね。僕が中上に、エリック・ホッファーを読めと言ってしばらく経つと、「柄谷はホッファーをわかってない、俺が日本のホッファーになる」と言い出したこともあった(笑)


――ホッファーは、港湾で働きながら独学で思索を深め、「沖仲仕の哲学者」と呼ばれたアメリカの思想家ですね。柄谷さんには、『現代という時代の気質』(ちくま学芸文庫)の翻訳もあります。


柄谷 実際、中上が羽田空港で肉体労働をするようになったのは、ホッファーを読んだからですよ。とにかく、ものすごく本を読んでいた。彼は本当に勉強する作家だった。


中上健次の結婚式で


――ちなみに、お二人の出会いの話は、中上さんもエッセーで書いています(「わが友柄谷行人」『鳥のように獣のように』講談社文芸文庫所収)。中上さんは遠藤周作に最初原稿を引き受けると答えたのですが、横で若い男がせんべいをボリボリ食べているのに腹が立って、席を立とうとすると、「ぼくもいっしょに」と、その若い男もついてきた、と。それが柄谷さんだった、と書いています。


柄谷 いや、先に出たのは僕だった。中上はでたらめを言う可能性が非常にあるよ(笑)。あいつはそもそも、予備校に行くといって東京に出てきて、途中から全然行ってなかった。親は大学を出たと思い込んでいたんだから。結婚式のスピーチを頼まれたときは困ったな。


――中上さんと作家の紀和鏡さんの結婚は、1970年ですね。芥川賞候補になった「19歳の地図」が73年の発表ですから、まだ文壇で注目を集める前です。


柄谷 僕も群像新人賞をもらってさほど経っていない時期だけど、中上はまだ作家とも言いがたい段階だった。その中上から、仲人をするように頼まれたんだね。普通、仲人のスピーチは、新郎新婦の学校、職業などの経歴をいって称賛しておけばすむものなのに、まさにそれを言わないように頼まれたんだからね。それで苦心した。ところが、中上は、後で僕に「母親が『あんなとんでもない仲人は、見たことがない。大学を出たことを一言も言わないなんてどういう神経だ』とか言ってたぞ」とか、うれしそうに言うんだよ。




ついでに、と言ったらなんだが、すこし前に松浦理英子さんーー彼女は私と同年生まれであるーーのこれまたとってもいい話を読んだので、ここに掲げる。



◼️中上健次がいた頃
松浦理英子

読者からも同業である小説家からも信頼され敬愛される小説家はその時代その時代にいるのだろうと思う。しかし、中上健次ほど多くの読者・小説家から強い信頼と敬愛を寄せられた小説家はいるのだろうか。そんなことを考えるのは、一九七〇年代後半から没年の一九九二年に至るまで、中上健次という小説家を取り巻いていた熱気を私が肌で憶えているからだ。


その熱気の全体像を描くのは手に余るので、ここでは中上健次より十二歳年下の後輩作家である私がこの大きな背中を見せてくれていた先行作家にどんな眼差しを注いでいたか、一つの具体例として書き留めておくことにしたい。


中上健次を知ったのは、一九七六年の初め、芥川賞受賞の際の記者会見の模様を伝える新聞記事によってである。そこで中上健次は居並ぶ記者たちに「男というものはお天道様の下で汗を流して働くものだ。あなたたちみたいなのは男じゃないよ」というようなことばを突きつけていた。正直よい印象は持てなかった。性別で人間をこうあるべきと決めつけることも不快だし、決めつけの内容も古風に過ぎると感じた。


中上健次が決して俗流のマッチョではないと知っている今では、あの発言は相当に誇張されたジャーナリズム向けの売り文句、煽り文句の類であって、それよりも、ある種の正統的な男性像を演じて見せる中上健次の自己プロデュースぶりに注目すべきかと思う。けれども、素朴な高校生であった当時の私は「この男は私の敵に違いない」と(ほんとうにこの通りのことばで)考えた。


そうした抵抗感が取り払われたのは、翌年刊行された、中上健次の次に芥川賞を受賞した村上龍との共著『中上健次vs村上龍 俺達の舟は、動かぬ霧の中を、纜を解いて、――』を読んだ時だった。


本のメインである対談の中で、中上健次は村上龍の『限りなく透明に近いブルー』の感想を述べているのだが、村上龍の独特の書き方を具体的に指摘したそれは、私が読んだことのあるどの批評よりも文章に対する感覚が繊細で、文章や小説が時代や個人の資質や理論など多彩な要素から成り立つ混沌としたものであることを鮮烈に示していて、小説家の読み方とはこういうものなのかと打たれるとともに、どうやらこの中上健次という小説家はすごい人のようだ、と思い、作品の方も読み始めたのだった。


さらにその翌年、一九七八年に、私は文学にまつわる事柄で、最も驚き最も啓発されたものの一つである中上健次の発言に出会うことになる。私は応募した文學界新人賞の最終候補に残り、デビューの直前だった。たまたま手に入れた『文學界』に掲載されていた中上健次、津島佑子を始めとする若手作家たちの座談会の中にそれらはあった。


のっけから「物語にも定型がある」と言い出した中上健次は、「物語、あるいは小説は、絶えず子供の視点である」「父親の視点で書かれたものは一つもない」「小説の主人公たちは、すべて私生児、孤児である」と論を展開する。文学理論的なものは私も好きで若輩者なりに学びもし考えてもいたけれど、全く思いがけない観点であったし、私がなじんでいた西洋文学流のありきたりな教養からは決して出て来ない考え方だと直感的に思った。


何よりも、それらは文学の孕む不自由さ、弱さ、いやらしさの指摘であり、口にすることで小説家自身が追い詰められ苦しくなるような、たいへん危うい発言だった。議論の当否よりも、文学と自分自身を同時に斬りつける中上健次の、文学に対するこの上なく真剣で誠実な姿勢に震える思いがした。これこそがすべての小説家が倣わなければならない態度であると今も信じている。


中上健次は小説家であるのと同等にすぐれた批評家、理論家でもあった。実際、精力的に小説を執筆するだけではなく、終生文学にまつわる刺戟的な発言を続けていた。批評家としては、時に手ひどい批判もしたけれど、他の作家の作品を親身に読み込み、評価する作品は惜しみなく讃えて業界の注目を呼び寄せた。とりわけ新人作家に親切で、女性作家が軽んじられていた時代に女性作家をも好んで読んだ。そういう人物であったからこそ、同業者からの信望が厚かった。あの頃、中上健次に作品を読んでほしいと願わなかった後輩作家がいるだろうか。


一九七八年にデビューしたものの十年近く芳しい評価をほとんど得られなかった私を、一九八八年三島由紀夫賞の候補に推薦し選評で論じてくれたのが中上健次だった。深く感謝するとともに、私もまたいつかまだ世に認められていない作家の力になることができれば、と考えた。小説家としての資質は随分異なるとしても、中上健次的な精神の破片は確実に私に突き刺さっている。





中上健次には、上のマッチョ風発言だけでなく、少なくとも女性にとって「私の敵」と思わせる文がふんだんにあるよ、1980年以降の作品において特にそうだが、1970年代の『枯木灘』にもある。



「なあ、秋幸、女というもんは寝るだけのもんじゃ。女らの言うことは女を下に敷いとる時だけきいたったらええんじゃ」


女というもんは寝るだけのもんじゃ、と男が言った言葉が耳にひっかかっていた。秋幸は、男が自分の弱味を握っていると感じた。秋幸はダンプカーに徹と五郎を乗せ、国道を走りながら、男を驚かし呻き苦しめるために暴いたさと子との秘密を逆手に取られたのを知った。確かに女とは寝るだけのものだった。女は性器にすぎない。秋幸は現場にもどり、また日を受け、汗を流し、ショベルカーでえぐり取った跡を図面どおりにスコップで土をならした。型板をつくる。 ボウリング場という大掛りな建物のため、基礎打ちが終ると、すぐに足場を丸太で組まなければならない。秋幸は、その寝るだけの女が何故自分を魅きつけるのだろうか、と紀子が秋幸の体に組み敷かれたまま抱え込み、撫ぜ、爪を立てる手の感触を思い出した。 その短かく刈った髪を撫ぜる手は、夏ふようの梢がふれる感触に似ていた。女は何故魅くのだろう。 美恵は、郁男が死んだ時、泣いた。秋幸は家の掘りごたつの中に足をつっ込み、朝飯を食いながら、路地の家の柿の木でくびれて死んだときいて、その時「ざまをみろ」と思った。郁男に勝ったと思ったのだった。 美恵が狂い、 さと子の事があった今、秋幸は、女である姉の美恵の力に振り廻されていた、と思った。


秋幸は持っていたスコップをいきなり型板にたたきつけた。 型板は割れた。 どなりつけてほしい。殴り倒してほしい。そう思った。そうすれば自分が、 浜村龍造の子であり、浜村龍造と同じように熱病を患い、祖父があり、曽祖父があり、はるか先に浜村孫一がいるという架空の物語を信じ、秋幸の半分の謎が明らかにされる。 何もかもから自由になる。(中上健次『枯木灘』1977年)