トラウマというのは何よりもまず記憶の問題なんだよ、少なくとも中井久夫はまずはその線で考えている。 |
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
ーー単語の記憶はフラッシュバック記憶的とあるが、これは外傷性的ということである。中井久夫のトラウマをめぐる思考はこの「記憶について」と『徴候・記憶・外傷』所収の「発達的記憶論」が白眉だね、 |
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
「単語の記憶はトラウマ的」?、ーーふつうは驚くかもしれないが、フロイトにおいてトラウマの定義は「自己身体の出来事」Erlebnisse am eigenen Körper(ラカンの「身体の出来事」un événement de corps)だ。音調あるいは音素の記憶は身体の出来事に相違ない。 上に《語りとしての自己史に統合されない「異物」》とあるが、次のように説明されてもいる。 |
一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
この「異物」Fremdkörperはフロイトは生涯頻用した概念であり、私は身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好んできた。 |
トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕 このトラウマは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。 ..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz … leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要) |
ラカンが次のように言うとき、このフロイト文に依拠している。 |
私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage. …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence. …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要) |
ラカンは現実界をモノともしているが、これは異者としての身体のこと。 |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976) |
そしてフロイトの「異者としての身体」の後年の定義はエスの欲動蠢動である。 |
エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要) |
エスは状態あるいは場処を示し、欲動は身体的要求を示す語である。 |
初期のトラウマの刻印は、前意識に翻訳されないか、抑圧によってすばやくエス状態に戻される[Die Eindrücke der frühen Traumen, von denen wir ausgegangen sind, werden entweder nicht ins Vorbewußte übersetzt oder bald durch die Verdrängung in den Eszustand zurückversetzt. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten、1939年) |
エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
ラカンの「現実界の享楽」は、フロイトの「エスの欲動」の言い換えにほかならない。 |
享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる[ Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance]》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)
現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004) |
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繰り返せば、現実界の享楽がトラウマあるいはトラウマの記憶としての異者としての身体であり、これが中井久夫曰くの《外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。》である。
そして前回引用したように喜ばしいトラウマの記憶もありうる。 |
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収) |
プルーストの次の文はこの文脈のなかで読みうる。 |
私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。〔・・・〕最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての少年の私だった。 je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」) |
異者が現れて「不快を感じた」とあるが、このプルースト文は次のラカンとともに読むことができる。 |
不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として現れる[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance.] (Lacan, S17, 11 Février 1970) |
このように「外傷性記憶」を軸に多くのものを関連づけることができる。前回はそれを「美」に結びつけたが。
ちなみに、中井久夫の「発達的記憶論ーー外傷性記憶の位置づけを考えつつ」初出2002年(『徴候・記憶・外傷』所収)のエピグラフにはこうある。
海の神秘は浜で忘れられ、
深みの暗さは泡の中で忘れられる。
だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。
ーーヨルゴス・セフェリス