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2023年11月22日水曜日

芸術家集団の滑稽さ

 

中井久夫の『治療文化論』には「非医療的救済文化への加入」をめぐる次の図があるがね、




人はみな病気だから、精神科医にかからないまでも、なんらかの自己治療の試みしてんだよ。


非医療的救済文化への加入

地理的救済(転居、転職、移住、移民、旅行、放浪(国内・国外))

"歴史的"救済

(現状のまま努力を倍加したり、スポーツなどを始めたりして、現状のパラメーターを変えようとする)(病い性を否認)。"歴史的"というのは、これまでの自己蓄積の上に立ち、それを増大させようとするから。

超越的・宗教的救済

(既存の軌道による)ーー坐禅、巡礼、仏門、修道院入り

非宗教的・愛他的救済

(他者の治療によって自己治療が代替される)--ヴォランティアなど → 時にプロの治療者となろうとし、時に成功する。

非宗教的・非愛他的救済

(他者の破壊による自己救済)ーーニセ治療者役:一部のスパルタ教育者などなど

美あるいは芸術による救済

入門の病いの発生も含む

犯罪・ルール違反による救済

叛乱ー英雄による自己救済


宗教あるいは宗教等価物(自然科学あるいは他の分野も含む)

(中井久夫『治療文化論』1990年、P120)



仮に秘教的ではないにしても、芸術家集団やそのファンクラブのたぐいは自己治療の試みの一環さ。これはフロイト用語なら欲動の昇華[Die Sublimierung der Triebe]だね[参照]。前期ラカンは《ヒステリー ・強迫神経症・パラノイアは、芸術・宗教・科学の昇華の三様式である[l'hystérie, de la névrose obsessionnelle et de la paranoïa, de ces trois termes de sublimation : l'art, la religion et la science]》(ラカン、S7, 03  Février  1960)と言っているが、これは別に芸術・宗教・科学に限らないので、すべての人間の言説は、不快な欲動への昇華だよ。つまり「お嬢さん向けーー欲動享楽対照表」で示した次の項目への防衛なんだ、精神分析的には。



別の言い方をすれば、すべての症状は、欲動なる不安=不快=トラウマを避けるためのものであり、これが欲動の昇華だよ。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)


この昇華は精神分析に限らず、古典的な話だがね、ーー《プラトンは考えた、知への愛と哲学は昇華された性欲動だと[Platon meint, die Liebe zur Erkenntniß und Philosophie sei ein sublimirter Geschlechtstrieb]》(ニーチェ断章 (KSA 9, 486) 1880–1882)


ま、お嬢さんに向けに敢えてふたたび言うなら、芸術家集団を特権化しないことだね、とくに秘教的芸術家集団をね、連中の滑稽さを見破らないとな。彼らは、取り巻きを集めて被愛妄想に耽りつつーーあの連中の男性性誇示には女性的被愛妄想効果があるのは明らかだねーー、酒を飲んだり、煙草を吸ったりしてるのとそれほど変わらないんじゃないかとせめて疑ってみないとな。



人間の精神衛生維持行動は、意外に平凡かつ単純であって、男女によって順位こそ異なるが、雑談、買物、酒、タバコが四大ストレス解消法である。しかし、それでよい。何でも話せる友人が一人いるかいないかが、実際上、精神病発病時においてその人の予後を決定するといってよいくらいだと、私はかねがね思っている。


通常の友人家族による精神衛生の維持に失敗したと感じた個人は、隣人にたよる。小コミュニティ治療文化の開幕である。(米国には……)さまざなな公的私的クラブがある。その機能はわが国の学生小集団やヨットクラブを例として述べたとおりである。


もうすこし専門化された精神衛生維持資源もある。マッサージ師、鍼灸師、ヨーガ師、その他の身体を介しての精神衛生的治療文化は無視できない広がりをもっている。古代ギリシャの昔のように、今日でも「体操教師」(ジョギング、テニス、マッサージ)、料理人(「自然食など」)、「断食」「占い師」が精神科的治療文化の相当部分をになっている。ことの善悪当否をしばらくおけば、占い師、ホステス、プロスティテュート(売春婦)も、カウンセリング・アクティヴィティなどを通じて、精神科的治療文化につながっている。カウンセリング行動はどうやら人類のほとんど本能といいたくなるほど基本的な活動に属しているらしい。彼らはカウンセラーとしての責任性を持たない(期待されない)代り、相手のパースナル・ディグニティを損なわない利点があり、アクセス性も一般に高い。(中井久夫『治療文化論』pp.129-130)



話を先に戻して言えば、音楽共同体の連中だって、かなりの割合で被愛妄想に耽っているんじゃないかね、とくにクラッシック音楽共同体の連中ってのはとっても臭いよ、その職人的果実に敬意を表さないわけではないにしろ。

ま、とくにこの期に及んで、コンサートホールで何のメッセージなしににこやかに演奏活動してるヤツは実に耐え難いな、ーー《近代国家はオーケストラを必要とする/…オーケストラだけではなく/指揮者 楽譜 作曲家も 国家マシンの一部》(高橋悠治「音の静寂静寂の音」2000)


クラッシック音楽共同体の棲息者ってのは、大量虐殺を支持する集団的西側の最も醜悪な側面の典型的体現者じゃないかね



国家主義と古典主義はおなじ側にある  規律や構成のように外部的で静的なバランスにもとづく管理  記号や表象の操作  内面化した自己規制  全体が矛盾なく たった一つの原理あるいはたった一つの構成要素から説明できると考える超合理主義……(高橋悠治「記憶と夢のあいだ」 2009年10月)


偽善でもよい、なぜ彼らはメッセージを出さないのか。よくもあんなに厚顔無恥でいられるもんだよ。


ひたすら目隠しし、耳を塞いで。


反時代的な様式で行動すること、すなわち時代に逆らって行動することによって、時代に働きかけること、それこそが来たるべきある時代を尊重することであると期待しつつ。in ihr unzeitgemäß – das heißt gegen die Zeit und dadurch auf die Zeit und hoffentlich zugunsten einer kommenden Zeit – zu wirken.〔・・・〕


世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。Denn alles, was mit der öffentlichen Meinung meint, hat sich die Augen verbunden und die Ohren verstopft (ニーチェ『反時代的考察 Unzeitgemässe Betrachtungen』1876年)