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2022年11月2日水曜日

やっぱりコンサートっていうのはいやですかね

以下、高橋悠治の文の純粋な引用。


◼️「音楽の時間」―高橋悠治・今福龍太 音楽を句読点とした対話―

2000年11月27日

高橋:(音楽を聴きながら)今福さんあれでしょ、コンサート行ったりあまりしないでしょ。


今福:しないです。わかりますか?


高橋:やっぱりコンサートっていうのはいやですかね


今福:ええ。20数年前の自分のことを考えると、コンサートという場の意味に関して非常にナイーブに考えてたなあ、と思うんです。別に悠治さんの演奏会だけじゃなくて、それこそ上野の東京文化会館であろうがなんであろうが、平気で入っていってクラシックのコンサートという場に昔は行けたということ自体が、 不思議ですね。〔・・・〕


今福:いつからそんなふうになったかは一概には言えないんですが、悠治さんのコンサートは最初から音楽をするという行為をどこかで客体化する視線があったような気がしますね。たしかにかたちの上ではコンサートというひとつの社会的な形式がとりあえずあって、それしかあまり選択肢がないというなかで、ピアノ を弾いたり……。でも水牛楽団になると、形態としてはコンサートとはだいぶ違うものになったわけですね。


高橋:水牛楽団の場合はね、コンサートっていうのはしたけど、主には集会に行って。


今福:ああ、そうですね。


高橋:そこで一曲か二曲かやりますよって形でしたからね、それはいる人も違うし、場もぜんぜん違うわけですよ。だから、今、そういう場がなくなってしまうと、やっぱり音楽をやるためには、CDを作るか、コンサートをやるか。で、コンサートをやる場所っていうのは他のことをあまりできない場所だから、しょう がないなあと思いながらやってるわけですけどね。これをまったく否定してしまったらば……、というか、まあ、この場所でもやれることは何かあるかもしれないということがひとつあるし、それから、それもひとつの条件だし、そこから違う条件のつけ方もありうるんじゃないか、というようなことも考えますよね。だから、水牛楽団をやめてから、コンサートの世界、あるいはライヴハウスっていうのをしばらくやりましたね。即興で、あれこれの人とセッションをやる。5、 6年はやったかな、それはすぐ飽きてしまったけど。みんな、この人はこれやるだろうと思うとそれをやるんですよね(笑)。なんだまたこれかっていうことになると、いつも違う人とやらなければならないっていう、これ一種の「消費」でしょうね、それと……ライヴハウスは暗い場所なのよ。地下だから、なんか息苦しいなあっていう感じで、一生懸命に……何というかな、そういう所に来るお客さんていうのは、盛り上がらないと許さないみたいな感じがひしひしとあってね。こちらは盛り上がるって事がいやなもんだから(笑)、ということになると、コンサートだけが残った。もういいやって感じになってきますね、段々ね。何かないもんでしょうかね、新しい空間は(笑)。




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音の静寂静寂の音(2000)

高橋悠治


4.20世紀の終わりに


ルイジ・ノーノが言うには
ヴェネチアの黄昏は 海上からせまる霧とともに
サンマルコの鐘の音が 空からも海からも
そして大地の下からも渦をまいてこだまする
これが自分の音楽の源なのだ


と言いながらも
作曲家はスコアを手に
ホールのまんなかに座り
ステージやバルコニーに配置された楽器群が
指示通りの時間で響きをうけつぎ
ただしい回転運動を実現しているか たしかめようとする


作曲家の座とは 音楽の玉座か
貴族が食事のあいだ宮廷音楽家たちは
カツラをつけ 上品な手つきで
食欲増進する音楽をやっていたものだ その昔
フランス革命で
王や貴族の頭が 籠のなかに転がり落ちた後
作曲家は 神のような高みから
音響の設計図片手に 百人もの演奏家と
燕尾服の工場支配人に命令する身分にでもなったのか
どこにもない空間に どこにもない時間
どこにもない響きをもとめて


ヨーロッパ の伝統は 音楽に精神的価値を認めている
と 細川俊夫が言っている
精神は天をめざして舞い上がったが
取り残された音楽の身体は ハーモニーの泥沼にはまったままだ
飼い慣らされたオーケストラの脱色された響きが
コンサートホールの閉ざされた扉の内側で荒れ狂おうと
印象にのこるのは音量だけだ
量と力と速度
産業資本主義と民族国家の時代
戦争と革命の20世紀の終わりに
ハーモニーで水増しされた凡庸さが
消費文化をおおっている


ハーモニー 調和とは
対立と競争の実体をおおいかくす平等主義
平均化された音を 関係によって差別化する構造
音はもう音ではない 構成要素 記号にすぎない
アリストテレス以来の 自他の区別にもとづく論理が
地球を国境線で分割しているあいだは
ヨーロッパ中心主義もなくならない


近代国家はオーケストラを必要とする
オリンピックで日の丸があがるとき
オーケストラがなかったら
だれが君が代を演奏するのだ
アジアを威嚇する
あの大太鼓のどろどろも


オーケストラだけではなく
指揮者 楽譜 作曲家も 国家マシンの一部

この制度をそのままに
ユートピアを夢見ても
灰色のオーケストラの音が呼び起こすのは
北の みたされることのない欠乏の論理


音はあらわれつづける
すべての音がすべての音とかかわる この
あらわれのなかで
音にからみついている よけいなもの
技術 エクリチュール 方法論 美学
をすてて
音楽をものほしげにしている すべてのくふう
音律論 和声学 ベースライン リズムパターン 楽器法
にこだわらず
音楽家をしばっている装置や制度
伝統 オーケストラ コンサート 作品
からはなれて
森でなくてもいい
都市のまんなかでも
とぎれることのない車の音
冷蔵庫のうなり コンピュータのファン
呼び交わすカラス けんかするネコ
通り過ぎる話し声
できるだけたくさんの音に 耳をひらき
名づけ分類することなしに
身体をさらしていると
やがてあらわれてくるだろう
耳のなかでざわめく神経の 高い持続音
鼓動のこだま 息の気配も


身体をとりまく音も
生きている身体の経験そのものである音も
皮膚の境界をこえて
あいまいにゆれうごく ひとつのオーケストラをつくる
この振動のなかから
ききなれないうたがきこえてくる
としたら
そこでは きくこととつくることがひとつで
楽器に触れる手は そのままで
楽器に押しつけられた耳である


なぜなら いまあらわれたこの音も
冷蔵庫やカラス 車の音とおなじように
神経の 沈黙の音を透かしてきこえてくる
この現実と別なもの ではないからだ
きこえる世界にこたえる このかすかな響きは
なにかを語り なにかをあらわすのではなく
音のあらわれそのものだ


………………


これらに代表される 2000年から2002年、高橋悠治62歳から64歳、このあたりまでが最も過激なことを言っており、後年いくらか穏やかになった感じを受ける、あくまで私の印象だが。



※参照


音の静寂静寂の音(2000) 

1.  いまここに立つ

2.  慈悲の音か音の慈悲か

3.  バッハから遠く離れて 

4.  20世紀の終わりに





凍った影だけ 鵞鳥はいない(2001)

(批評空間第III期第1号)

世界の根拠のなさについて(2001)

(批評空間第III期第2号)

哲学をうたがう非詩 (2002)

(批評空間第III期第3号)

起源のない世界 (2002)   

(批評空間第III期第4号)