むかしは「現代音楽」を無理して聴いたんだよな、いまはほとんどウェーベルンしか聴かないや。仮にウェーベルンを現代音楽の範疇に入れるとして。
高橋悠治でさえ《その頃なじんでいた「現代音楽」をたまに聞きなおすと なぜこんなものに惹かれていたのか と思うことさえある》と言ってるんだな。
申年の失敗 高橋悠治 水牛2017年1月号 |
去った申年もまた いくつかの失敗をかさねて終わった もともと1960年代に草月アートセンターで 前衛の作曲家として出発したはずが |
そう思っていたが 最近出版された柴田南雄の『音楽界の手帳』を見ると 1970年代には オーケストラもコーラスも使って作品を書き ピアノもクセナキス ケージだけでなく ジェフスキーもアイスラーも弾いていた いまはケージやクセナキスを演奏する人も多いし 分析されて研究書もあり アカデミーでも教えられている その頃なじんでいた「現代音楽」をたまに聞きなおすと なぜこんなものに惹かれていたのか と思うことさえある 音楽が変わったのか こちらが変わったのか 両方か ユーモアのかけらもなく 無用に複雑で 極端な対照効果と超絶技巧を見せびらかす音楽 個性を売り物にしてくりかえし 単調になってしまった響き 作曲家にとって技術的安定や熟練だけでなく 社会的地位と経済の安定は いい結果にならない ケージやクセナキスや武満も 理解者がすくなく 生活もたいへんだった初期の作品は いまも新鮮な発見で輝いている |
しごとを減らし 収入を低く抑え ひとの先に立たなければ 時間もともだちもできる(老子67章) 現実は思いのままにはいかないが そのたびに決めなおし 折り合いをつける 原則はもたず いやなことはしないで済めば それでいいとしなければなるまい |
マーケットでまず成功してから 獲得した地位や権力と機会を使って本来のしごとができると思うのはまちがいだと思う 成功した後では「本来」が何だったのかわからなくなっているかもしれないし 作られた「自分」を演じつづけなければ マーケットから見捨てられる 成功がじつは失敗である もうひとつの理由は あまり働くと むだな収入が増えるばかりか 税金にとられ 健康保険が高くなり 年金が減る こんな国のこんな政府が使うための税金は払わないで といっても 脱税するために時間と労力をかけるのもおろかだから わずかな収入は銀行に預金するより 現金のまま 早く使ってしまうのがいいかもしれない 狭い家をガラクタで塞ぐ買い物ではなく ともだちと飲んでしまうのがいいが 残念なことに 体力が衰えている |
ふと気づくと 17世紀のパーセルやルイとフランソワのクープラン フローベルガー 18世紀のバッハ 19世紀のシューベルト 20世紀前半のブゾーニ サティ ストラヴィンスキー アイスラーくらいしか弾きたいものがなくなっていた 現在形の音楽を演奏していたのに いつからこうなったのだろう このままではしかたがない |
1960年代の前衛をその頃にいなかった人たちが研究するのはいいとして こちらとしては 自分の過去を振り返っても何も出てこない では 2010年代の音楽はどこにあるのだろう 若い世代の作曲家をざっと見ても 使い古されたノイズと空虚な大音響 顔のない電子音 ポストなんとか ニューかんとか 日本では それに加えて時代遅れのTVのような 批判のない 体制寄りで大声の空虚なお笑い音楽 政治家同様に音楽家も自分から鎖にすりよるポチが多い時代なのか(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷属論』)それとも どうしようもなくなってから やっと変革が起こるのか まだ知られていないこの時代の音楽が どこかに隠れているのだろうか |
こどもの頃 ケージやロスラヴェッツやクセナキスは名前でしかなかった 易のよる音楽も合成和音も確率による音楽も知ったのはずっと後になる だが 知りたくても情報がないのなら 自分で作るよりない 易や合成和音も確率音楽も自分で考えだしたやりかたで書いてみた ユイスマンスの『さかしま』のなかで デゼッサントが収集したアートに囲まれて暮らし 手に入らないアート作品はそれらしいものを自分で作った と読んで それに倣ったわけだが 後になって『さかしま』を読んだら そんなことは書いてなかった 『さかしま』のことは セシル・グレイのブゾーニ論(大田黒元雄訳『現代音楽概観』)で読んだはずだが かなり後でブゾーニを弾くようになると それも記憶ちがいだったのかもしれないと思う 楽譜が手に入るようになってから ケージ ロスラヴェッツ クセナキスの作品を見ると 想像していたのとはまったくちがっていた こうして模倣者ではなく むしろニセモノ造り オリジナルとはまったくにていない サルにもなれないサル ニセモノとも言えないニセモノ造り として出発したのだから 音楽の現在も自分で偽造するよりないのだろうか |
ここで 読んだことのない小説からの引用で 一応しめくくろう 「私は何一つ創造することができなかった。しかし、モデルを相手に、こんなポーズを取ってくれ、こんな表情をしてくれと注文する画家のように、私は現実の前に立っている。だから、社会が私に提供してくれるモデルは、それが何によって動かされるかがわかれば、私の意のままに動かすことができる。少くとも遅疑逡巡しているモデルにある問題を提出することができる。モデルは彼らなりにそれを解決するだろうから、彼らの反応の仕方によって得るところがあるはずだ。自分が小説家なればこそ、彼らの運命に介入したり働きかけたりしたい欲求に悩まされるのだ。もし私にもっと想像力があれば、複雑な筋を仕組むことだろう。どころが、私はそういうやり方に反旗をひるがえし、まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進めるのだ。」(ジイド『贋金つくり』) |
ところでいま評判の高い藤倉大の作品は「現代音楽」なのかね、「春と修羅」とか「Akiko's Diary」とかは、20世紀前半のフランス古典音楽の響きがしてとても惹きつけられるけど。
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高橋悠治の《マーケットでまず成功してから 獲得した地位や権力と機会を使って本来のしごとができると思うのはまちがいだと思う 成功した後では「本来」が何だったのかわからなくなっているかもしれないし 作られた「自分」を演じつづけなければ マーケットから見捨てられる/成功がじつは失敗である》というのは、中井久夫の次の文とともに読むことができる。 |
以下、中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」(1996)からパラグラフ分けし小題をつけて引用する。 |
◼️癒しと文体 |
私は文体獲得によって初めて創作行為は癒しとなりうると考える。それは癒しの十分条件ではないが必要条件であると私は思う。 むろん個人の日記、ノートの類も癒しの意味を持たないわけではないが、それは別個の問題であって、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しである。〔・・・〕 |
◼️処女作の豊饒さの喪失 |
しかし、文体獲得を以て万事よしとすることはできない。 芥川賞を初め、文学賞受賞作と受賞後第一作との相違を次のように定式化することができる。受賞作にあるあらゆる萌芽的なもののうち、受賞第一作においては、受賞によって光りを当てられた部分が突出しているとーー。しばしば、受賞作にある豊穣さは第一作においては単純明快化による犠牲をこうむっている。 作家となることは実にしばしば流入する体験が偏り、狭くなることである。わが国の作家が世に知られるとともに文壇と家庭の事件を書くことになってしまう例はいくらでもある。 |
◼️創造的てありつづけることの困難 |
一般に、作家が創造的でありつづけることは、創造的となることよりもはるかに困難である。すなわち、創造が癒しであるとして、その治癒像がどうなるかという問題である。 一般に、四つの軌道のいずれかを取ることが多い。一つは「自己模倣」であり、第二は「絶えざる実験」であり、第三は「沈黙」である。第四は「自己破壊」である。実際には読者および時代の変化と当人の加齢とに応じて、時とともに変化することが少なくない。 |
◼️自己模倣 |
「自己模倣」はもっとも安全である。彼の書くものがいかにも彼の書くものらしいことを求める「ひっそりとした固定読者」の層に包まれて彼は一種の「名優」となる。わが国においては、詩人あるいはエッセイストの場合でさえ「その人のものなら何でも買う」固定読者が千五百人はいる。彼は歌舞伎の俳優のように芸の質を落とさないように精進していればよい。ただ、読者の移り気は別としても、文学における「自己模倣」は演劇あるいは絵画よりも困難である。林武のように薔薇ばかり描いているわけにはゆかない。こうして彼は第二の「実験」に打って出る誘いを内に感じる。 |
◼️実験 |
「実験」は画家ピカソあるいは谷崎潤一郎を思い浮かべられればよいだろう。ただ、マルクスが創造的である条件とした「若く貧しく無名であること」が失われている場合、「実験」はショウに堕する危険がある。この場合、彼が実験することを求める騒がしい読者、批評家、ジャーナリストに囲まれて、彼は「絶えざる実験者」となるが、危険は「スター」に堕することである。それはこのタイプの「囲む連中」が求めることである。私は三島由紀夫の例を思い浮かべずにはいられない。この道を全うするには、ゲーテほどの狡知と強制的外向人化と多額の金銭とが必要である。 |
◼️沈黙 |
第三は「沈黙」である。これは志賀直哉がほぼ実現した例である。創造的でない時に沈黙できるのは成熟した人、少なくとも剛毅な人である。大沈黙をあえてしたヴァレリーにして「あなたはなぜ書くのか」というアンケートに「弱さから」と答えている(彼は終生金銭に恵まれなかった)。もっとも、彼が無名の時にかちえた「若きパルク」完成のために専念した四年間のような時間は、著名になってからは得るべくもなく、第二次大戦が強制した沈黙期間がなければ最後の大作「わがファウスト」に着手できなかったであろう(死が完成を阻んだが)。 |
◼️自己破壊 |
第四は例を挙げるまでもない。己が創ったものは自己の外化であり、自己等価物、より正確にいえば自己の過去のさまざまな問題の解決失敗の等価物、一言にしていえば「自己の傷跡の集大成」である。それらはすべて新しい独特の重荷となりうる。それらはもはや廃棄すべくもないとすれば、代わって自己破壊への拒みがたい傾斜が生まれても不思議ではない。老いたサマセット・モームは「人を殺すのは記憶の重みである」と言い残して自殺している。 |
◼️昇華と自己破壊 |
サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。それは、多くの創造の癒しが最後には破壊に終る機微を述べているように思われる。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」1996年) |
最後の昇華については、フロイトは実際は上のようには言っていないことを付け加えておこう。 |
人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。 |
抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進むungebändigt immer vorwärts dringt」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
欲動の昇華されえない残滓、これがラカンの享楽である[参照]。