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2022年11月2日水曜日

耐え難いグールドの死


 「やっぱりコンサートっていうのはいやですかね」という高橋悠治の言葉を前回引用したが、私にとっては「やっぱり」とはグールドの言うように、だ。

さてどうしたものか。グールドの「コンサート批判」を振り返ってみるべきか。とはいえグールドは語られすぎた。いまさら、というのは気がないではない。私はグールドを遠巻きにしている。近寄ると痛みが起こってどうしようもなくなるときがある。遠くのものが耐え難いほど近くにやってきて眩暈がする。13歳のとき母にグールドのレコードをプレゼントされた。アリオーソに狂った。次から次へとグールドのレコードを探し求めた。1932年生れ1982年逝去のグールドは偶然にも母と同じであり、グールド命日10月4日の1ヶ月後の同じ4日、母は死んだ。棺に母が愛したカール・リヒターのカンタータBWV 4のレコードとともにグールドのレコードを入れた。だが痛みはこのせいではないと思いたい。

なぜ私はグールドをあれほど愛したのか、いやいまもひそかにひどく愛し続けているのか。至高の芸術体験をひとつだけあげろ、と言われたら間違いなくグールド体験なのだ。なぜそうなのか。この問いからいまだ逃げ続けているのだ・・・いやそもそも答えなどないのはわかっている・・・

ここではカラヤンとバーンスタインの言葉のみを掲げる。




グレン・グールドの死は、近年我々が味わったまさしく最大の喪失のひとつである。私たちがともに音楽を演奏し、親しい友となったのは、すでに二十五年以上も前のことになる。 彼の演奏を聴くと、まるで私自身が弾いているかのように感じられた。それほど彼の音楽は私自身の音楽感覚にじかに訴えたのである。

彼が旅をしなくなったために、再び共演しレコードを作ることがなかったのを残念に思う。

次の世代にも、彼は演奏技巧の音楽的衝撃と非の打ちどころのない感性を併せ持つ音楽家の、比類なき手本と見なされるであろう。彼は未来へ通じるスタイルを創造した。彼と分かち合った体験は決して忘れられない。


ヘルベルト・フォン・カラヤン

1983年2月 ザルツブルク






グールドは本当に愛さずにはいられない人間だった。私たちは親しい友人同士だったが、彼が公の演奏をやめてしまってからは、しだいに会うことも少なくなってしまった。私たちの友情は 、互いの探究心への敬意に基づいた深いものであっただけに、残念に思う。彼は、真剣に相対し、学び取ることの多い知性の持主だった。私よりも十五歳若かったが、どんな点をとっても決して年下に感じたことはなかった。あらゆる意味で真の仲間であった。彼の死は、私にはまさに耐え難い。


レナード・バーンスタイン「伝説の真相(The Truth About a Legend)」1983年



バーンスタインの「耐え難い」ほど美しい映像があったな、シューマンの交響曲2番アダージョ。1990年6月の札幌パシフィック・ミュージック・フェスティバルのリハーサル映像であり、彼は同年10月にエイズで死んだ➡︎Leonard Bernstein,Rehearsal just before his death