死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi] (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
タナトスは超自我の別名である[Thanatos, which is another name for the superego ](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre Gilles Guéguen, The Freudian superego and The Lacanian one. 2016) |
死の欲動と超自我の関係がわからないのはときに単純に無知に基づいているのではないかと思ってしまうことが最近ままある。といっても私自身もそれが鮮明に掴めたのはこの4、5年のことであり、人のことは言えない。
以下、主に母なる神と母なる超自我をめぐる。
◼️母なる神 |
歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた[Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, … Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter 」(フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年) |
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ロバート・グレーヴスが定式化したように、父自身・我々の永遠の父は、白い女神の諸名のひとつに過ぎない[comme le formule Robert Graves, le Père lui-même, notre père éternel à tous, n'est que Nom entre autres de la Déesse blanche,](Lacan, AE563, 1974) |
白い女神はロバート・グレーヴスにおいて母なる神である。 |
ケンタウロスの母なる神はギリシャ語でレウコテア、「白い女神」と呼ばれていた[The Centaurs' mother goddess was called, in Greek, Leucothea, 'the White Goddess', ](ロバート・グレーヴス『白い女神』Robert Graves , The White Goddess, 1948 年) |
したがって母は原神である。 |
偉大なる母、神たちのあいだで最初の「白い女神」は、父の諸宗教に先立つ神である[la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père] (J.-A. Miller, MÈREFEMME 2016) |
◼️母なる超自我 |
一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970) |
フロイトは超自我について次のように記している。 |
心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年) |
ーー高等動物にもある《幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]》はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。 |
これ自体、ラカンは既にセミネール5の段階で言っている。 |
母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要) |
◼️母なる超自我に見捨てられる死の不安 |
フロイトは別に保護的超自我という表現を使い、死の不安を語っている。 |
死の不安[Todesangst]は、去勢不安[Kastrationsangst]の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。 die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年) |
この保護的超自我[schützenden Über-Ich]はやはり母である。 |
空腹を満たしてくれる母が最初の愛の対象になる。そしてたしかにまた、幼児をおびやかしているありとあらゆる外界の危険にたいする保護者ーー人間が抱く不安にたいする最初の保護者と言ってもよいであろうーーともなる。この母の役割はやがてより強力な父によってとってかわられる。 So wird die Mutter, die den Hunger befriedigt, zum ersten Liebesobjekt und gewiß auch zum ersten Schutz gegen alle die unbestimmten, in der Außenwelt drohenden Gefahren, zum ersten Angstschutz, dürfen wir sagen.In dieser Funktion wird die Mutter bald von dem stärkeren Vater abgelöst (フロイト『ある錯覚の未来 Die Zukunft einer Illusion』第4章、1927年) |
不安は去勢であるとともに不快・トラウマ・喪失を意味する。 |
不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
去勢、すなわち喪失[Kastration, d. h. als Verlust](フロイト『ある五歳男児の恐怖症分析』「症例ハンス」1909年ーー1923年註) |
フロイトにおいて不快は欲動であり、死の不安は死の欲動とすることができる。 |
不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
なおラカンの享楽も同様であるのは半年ほど前に示した(参照)。
◼️母なる超自我と死の欲動 |
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
超自我は固着に関わり、自己破壊的に作用するとある。 まず母は超自我ゆえにこの固着は母への固着である。 |
おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
さらに究極の固着ーー母への原固着ーーは出生トラウマに関わり、母胎回帰欲動に関わる。 |
出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。 Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある。Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib. (フロイト『精神分析概説』1939年) |
先に戻って、超自我に関わる自己破壊とは何か。 |
マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
すなわち超自我はマゾヒズム的自己破壊欲動=死の欲動に関わる。 |
ラカンの現実界の享楽がマゾヒズムかつ死の欲動であり母であるのはこのフロイトにある。 |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムから構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはこれを見出したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert ](Lacan, S23, 10 Février 1976) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
◼️白き女神への祈り ここでロバート・グレーヴス『白い女神』に戻ろう。 グレーヴス自身、白き女神を死と関連づけている。 |
真の詩とは必ず、白き女神への祈りである。すなわちミューズ、すべての生きとし生けるものの母、戦慄と渇望の古代の力、女郎蜘蛛、あるいは死を抱擁する女王蜂への祈りである。 a true poem is necessarily an invocation of the White Goddess, or Muse, the Mother of All Living, the ancient power of fright and lust―the female spider or the queen-bee whose embrace is death.(ロバート・グレーヴス『白い女神』Robert Graves , The White Goddess, 1948 年) |
白き女神への祈りについては、ジャック=アラン・ミレールは次のように注釈している。 |
言葉は根源において祈りである。しかし宗教は父に向かった。この父は基本的に、最初の神性である母の代理人である。la parole est dans son fond prière, mais avec ceci que, dans la religion, elle se dirige vers le père – ce père qui est au fond un substitut de la première divinité, laquelle est maternelle. 〔・・・〕 全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある。偉大なる母、諸神のなかの最初の白い女神であり、父なる諸宗教に先行する神だとわれわれは教えられている。La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère, de la Grande Mère, première parmi les dieux, la Déesse blanche, celle qui, nous dit-on, a précédé les religions du père. (J.-A. Miller, MÈREFEMME,2016) |
日本ではほとんど読まれていないグレーヴス『白い女神』だが、ネット上にPDFが落ちているので参照されたし。ここでは触れなかったが、グレーヴスの月女神をめぐる歴史的考察に魅された、ーー《returns at death to the Universal Mother, the White Moon Goddess》。
なお母が神であるのは、日本でも折口信夫の「妣が国」などを初めとしてしばしば指摘されてきた。さらに折口の常世とは次の多義的な内実をもっている[参照]。
この多義性自体、実にフロイト的である。というのはフロイトにおいて母へのエロス的固着ーー《初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.]》(『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)ーーが死の欲動に結びつくのだから。
あるいは、ロバート・グレーヴス的と言ってもよいし、カール・ケレーニイの解釈する古代ギリシア的と言ってもよい[参照]。フロイトは、ある意味で、古代では常識だったことを精神分析臨床の下で再発見したと言いうるのではないか。