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2024年7月16日火曜日

身体の出来事の「痛み」のレミニサンス

 

身体の出来事はレミニサンスする。それは異者の回帰である。


私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての幼年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)


ーーこれは幼年期の異者のレミニサンスの記述である、喜ばしいトラウマのフラッシュバックだ。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



ーーここで中井久夫が言っている「異物」は、フロイトのFremdkörperであり、私はその身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好んできた。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕


このトラウマは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)



この異者こそラカンの現実界、現実界のトラウマのレミニサンスだ。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


現実界のトラウマ、すなわちモノ=異者(異者としての身体)である。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


このモノなる異者こそ現実界の享楽であり固着にほかならない。

享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1, 07 Juillet 1954)


ーーまずは「享楽=現実界=トラウマ=固着=同化不能」であり、この「同化不能」がフロイトのモノなる異者の定義だ。

同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)


この自我あるいは言説に「同化不能な異者としての身体」こそ、先の中井久夫の云う《語りとしての自己史に統合されない「異物」》にほかならず、フロイトが生涯繰り返して強調したリビドーの固着[Fixierung der Libido]である。


繰り返せば異者なる固着のトラウマはレミニサンスする。喜ばしいトラウマのレミニサンスとは一般には奇妙に思われるかもしれないが、フロイトのトラウマの定義は身体の出来事だ。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕

このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


ここにある身体の出来事への固着という不変の個性刻印が、これまた先の中井久夫が言っている外傷性記憶としての「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」にほかならない。


もちろんプルーストにも喜ばしいトラウマのレミニサンスだけでなく悲哀に満ちたレミニサンスがある。

遅発性の外傷性障害がある。〔・・・〕これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・外傷・記憶』)


『失われた時を求めて』は「身体の出来事のレミニサンス」をめぐる記述としても読むことができるのである、前回示したプルースト自身曰くの「記憶の固着」la fixité du souvenirをめぐる小説、あるいはロラン・バルトの云う「失われた時の記憶=身体の記憶」の小説として。


私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕


幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)




最後に私が好む「木の葉の匂」をめぐる記述を掲げておこう。


その道は、フランスでよく出会うこの種の多くの道とおなじように、かなり急な坂をのぼると、こんどはだらだらと長いくだり坂になっていた。 当時は、べつにその道に大した魅力を見出さず、ただ帰る満足感にひたっていた。ところがそののちこの道は、私にとって数々の歓喜の原因となり、私の記憶に一つの導火線として残ったのであり[Mais elle devint pour moi dans la suite une cause de joies en restant dans ma mémoire comme une amorce ]、この導火線のおかげで、後年、散歩や旅行の途中で通る類似の道は、どれもみんな切れないですぐにつながり、どの道も私の心と直接に通じあうことができるようになるだろう。なぜなら、ヴィルパリジ夫人といっしょに駆けまわった道のつづきであるというように見える後年のそうした道の一つに、馬車または自動車がさしかかるとき、すぐに私の現在の意識は、もっとも近い過去にささえられるかのように(その中間の年月はすべて抹殺されて)、直接バルベック近郷の散歩の印象に[ce à quoi ma conscience actuelle se trouverait immédiatement appuyée comme à mon passé le plus récent, ce serait (toutes les années intermédiaires se trouvant abolies) les impressions ]、ーーあの午後のおわりの、バルベック近郷の散歩で、木の葉がよく匂い、タもやが立ちはじめて、近くの村のかなたに、あたかもその夕方までには到着できそうもない何か地つづきの違い森の国とでもいうように、木の間越しに夕日の沈むのが見られたとき、私が抱いたあの印象にささえられるようになるからである。

そうした印象は、他の地方の、類似の路上で、後年私が感じる印象につながって、その二つの印象に共通の感覚である、自由な呼吸、好奇心、ものぐさ、食欲、陽気、などといった付随的なあらゆる感覚にとりまかれながら、他のものをすべて排除して、ぐんぐん強くなり、一種特別の型をもった、ほとんど一つの生活圏をそなえた、堅牢な快楽となるのであって、そんな圏内にとびこむ機会はきわめてまれでしかないとはいえ、そこにあっては、つぎつぎと目ざめる思出は、肉体的感覚によって実質的に知覚される実在の領分へ、ふだんただ喚起され夢想されるだけでとらえられない実在のかなりの部分をくりいれ、そのようにして、私がふと通りかかったこれらの土地のなかで、審美的感情などよりるはるかに多く、今後永久にここで暮らしたいという一時的なしかし熱烈な欲望を、私にそそるのであった。

そののち、ただ木の葉の匂を感じただけで、馬車の腰掛にすわってヴィルパリジ夫人と向かいあっていたことや、リュクサンブール大公夫人とすれちがって、大公夫人がその馬車からヴィルパリジ夫人に挨拶を送ったことや、グランド= ホテルに夕食に帰ったことなどが、現在も未来もわれわれにもたらしてはくれない、生涯に一度しか味わえない、言葉を絶したあの幸福の一つとして、何度私に立ちあらわれるようになった ことだろう!

Que de fois, pour avoir simplement senti une odeur de feuillée, être assis sur un strapontin en face de Mme de Villeparisis, croiser la princesse de Luxembourg qui lui envoyait des bonjours de sa voiture, rentrer dîner au Grand-Hôtel, ne m'est-il pas apparu comme un de ces bonheurs ineffables que ni le présent ni l'avenir ne peuvent nous rendre et qu'on ne goûte qu'une fois dans la vie. (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



私はにおいに弱いんだな、プルーストのにおいの記述は何度読んでもクラクラするよ、➡︎ 「さんざしの匂と女の匂


……………


閑話休題。ーー《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)



何はともあれ(?)10日ほど前、「鯛茶漬けとレミニサンス」の出来事に遭遇してからどうも調子がでないね、立て続けにほかのレミニサンスに襲われてばかりで。喜ばしいものであってもフロイト曰くの心的痛み[psychischer Schmerz]はあるからな。


疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil] のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)



そう、音楽聴いたってダメさ、遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってきてね



最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある[le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. ]〔・・・〕

痛み[la douleur]はつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦痛[la souffrance]だけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)



これはマゾヒズムなんだろうか、フロイトは《痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)と言ったが。


・・・と記したらニーチェの声がきこえてくるな


痛みと快は力への意志と関係する[Schmerz und Lust im Verhältniß zum Willen zur Macht.  ](ニーチェ遺稿、1882 – Frühjahr 1887)

すべての欲動の力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)


欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、マゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇 , 1905年)


芸術や美へのあこがれは、性欲動の歓喜の間接的なあこがれである[Das Verlangen nach Kunst und Schönheit ist ein indirektes Verlangen nach den Entzückungen des Geschlechtstriebes ](ニーチェ遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )




ま、マゾヒズムについてはここではこれ以上問わないまでも、自我の異郷にさすらっていたアイツは回帰するのさ。

偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。〔・・・〕この異者は内界にある自我の異郷部分である[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen …das ichfremde Stück der Innenwelt ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


ニーチェのさすらいびと [Der Wandere]がまさに外傷性記憶ってもんだよ、《一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。》(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


おっと今度はショーペンハウアーの声がきこえてくるよーー、

私たちの意識を、ある深さの水の層にたとえてみよう。すると、明確に意識されている考えは、その表面にすぎない。一方、水の塊は、不明瞭なもの、つまり感情、知覚や直観の後続感覚、そして一般的に経験されるもの、私たちの内なる本質の核心である私たち自身の意志の性向と混ざり合ったものである。die Sache zu veranschaulichen, unser Bewußtsein mit einem Wasser von einiger Tiefe; so sind die deutlich bewußten Gedanken bloß die Oberfläche: die Masse hingegen ist das Undeutliche, die Gefühle, die Nachempfindung der Anschauungen und des Erfahrenen überhaupt, versetzt mit der eigenen Stimmung unsers Willens, welcher der Kern unsers Wesens ist. (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』14章)



いやあこうやって雑然と書くというのも大事だね、いろんな文が芋蔓式に結びついてきて。この投稿は《最後に私が好む「木の葉の匂」をめぐる記述を掲げておこう》とした後の記述が重要だよ、少なくとも私にとって(いま遡って折口信夫の閑話休題を付け加えておいたがね)。



おっとまたきこえてきたな、

人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


つまりは、身体の出来事の回帰だね

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation … on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である[la jouissance est un événement de corps. …la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, … elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)



固着は抑圧の第一段階であってーー《抑圧の第一段階は、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ](フロイト『症例シュレーバー』第3章、1911年)ーー、つまり異郷のさすらいびとの回帰が原初にある抑圧されたものの回帰だよ、いまだもって巷間ではまったく理解されていないが。ーー《抑圧されたものは自我にとって異郷、内的異郷である[das Verdrängte ist aber für das Ich Ausland, inneres Ausland]》(フロイト『新精神分析入門』第31講、1933年)