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2024年7月23日火曜日

ラカン・柄谷による「人はみなフェティシスト」は冗談ではない


何度か掲げているが、次のラカンと柄谷は、事実上同じことを言っている。


人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.]  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


これは、人間の生におけるあらゆる交換ーーその代表的な記号は言語であるーーはフェティッシュだということである。


柄谷は後年、別の言い方をしている、《広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。…その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる》と。


『資本論』は経済学の書である。したがって、多くのマルクス主義者は実は、『資本論』に対してさほど関心を払わないで、マルクスの哲学や政治学を別の所に求めてきた。 あるいは、『資本論』をそのような哲学で解釈しようとしてきた。むろん、私は『資本論』以外の著作を無視するものではない。しかし、マルクスの哲学や革命論は、むしろ『資本論』にこそ見出すべきだと考えている。一般的にいって、経済学とは、人間と人間の交換行為に「謎」を認めない学問のことである。 その他の領域には複雑怪奇なものがあるだろうが、経済的行為はザッハリッヒで明快である、それをベースにして、複雑怪奇なものを明らかにできる、と経済学者は考える。だが、広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年)


経済的なものとしての《貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚安であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである》とは、これ自体、貨幣のフェティシズムあるいは商品のフェティシズムを言っているのである。


貨幣のフェティシズム……マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」)


貨幣のフェティシズムとは、《すべての商品と関係しあう一中心としての商品、すなわち貨幣》(柄谷行人『マルクスとその可能性の中心』1978年)としてのフェティシズムである。これが、マルクスが次のように言っている別の言い方である。


貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない。Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs. (マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)



マルクスは「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」の節で、次のように記している。


一見したところ、商品はきわめて明白でありふれた物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学的神秘や神学的微妙さに満ちた、何とも厄介な物であることがわかる。

Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken.


商品は使用価値としては、神秘的なところはまったくない。わたしがここで、商品はその特性によって人間の欲求を満たすものであるという観点から分析しても、商品は人間労働の産物として、初めて商品という性格をそなえるようになるという観点から分析しても、神秘的なところはないのである。〔・・・〕


それでは、労働生産物が商品形態をとるとき、その謎のような性格はどこから生ずるのか?明らかにこの形態そのものからである。いろいろな人間労働の同等性はいろいろな労働生産物の同等な価値対象性という物的形態を受け取り、その継続時間による人間労働力の支出の尺度は労働生産物の価値量という形態を受け取り、最後に、生産者たちの労働の前述の社会的規定がそのなかで実証されるところの彼らの諸関係は、労働生産物の社会的関係という形態[die Form eines gesellschaftlichen Verhältnisses der Arbeitsprodukte]を受け取るのである。


商品形態の謎めいた性格とは偏に次のことにある;商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって、超感覚的な物あるいは社会的な物[sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge]になる。


労働の社会的性格が商品の社会的性格に転化するという関係は、人が視神経に結ぶ物の像ーーそれは外部の物から視神経が受ける主観的な刺激にすぎないーーを物そのものの姿として認識するのに喩えることができる。だが、物の像が人に見えるという現象が物理的関係--外部の物が発する光が別の物である眼に投射されるーーを表しているのに対して、商品形態とそれが表れる諸商品の価値関係は何らの物理的関係も含んでいない。


このばあい、人間にたいして物の関係の幻影的形態 [die phantasmagorische Form eines Verhältnisses von Dingen]をとるのは、人間自身の特定の社会関係であるにすぎない。したがって(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域[die Nebelregion der religiösen Welt ]に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。


これを私はフェティシズムと名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。

Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.


(マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


これが先の柄谷の《貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである》の内実である。



後年のラカンも柄谷同様、別の言い方をしている、「症状概念」と。

症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971)


ここにある症状とは社会的結びつきーー「コミュニケーション=交換」関係ーーのことである。

社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999)


この社会的結びつきの別名が「言説」 discoursであり、「見せかけ」 semblantである。

言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972)

言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972)


この「見せかけ」のさらなる別名こそ「フェティッシュ」である。

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


症状=社会的結びつき=言説=見せかけ=フェティッシュ」であり、先のセミネールⅩⅧラカンの云う「症状概念」la notion de symptômeとはマルクスの「フェティッシュ概念」la notion de féticheを示しているのである。比較的よく知られているだろうラカンの「四つの言説」Les Quatre Discours理論とは「四つの症状」Les Quatre Symptômesであり、事実上、「四つのフェティッシュ」Les Quatre Féticheなのである。


これが冒頭に掲げたセミネールⅣで既に言っていることにほかならない。再掲しよう。

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.]  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)


簡単に言ってしまえば、商品の交換同様、言語の交換はフェティッシュである。

主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


話す存在である人間はみなフェティシストである。これが既にはやい段階でのラカンと柄谷の洞察である。

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


あらゆる記号の交換はフェティッシュにほかならないのである。



さらに言えば、人はみな、金融資本を背後に抱えた現在の政治権力のこよなく醜悪な有様を「資本フェティッシュ」に付け加えて「権力フェティッシュ」の効果だと疑わねばならない。


金融資本主義は本質的に自己破壊的である[finance capitalism is intrinsically self-destructive]〔・・・〕金融資本主義とは、上位1%に属する人がいかにしてタダ飯を手に入れるかということだ[finance capitalism is all about how to get a free lunch if you're a member of the one percent. ]

(マイケル・ハドソンMichael Hudson, Finance Capitalism's Self-Destructive Nature, July 18, 2022)


……………


※附記


柄谷行人の英語論文ーー邦訳されているかもしれないが私は知らないーーから金融資本と資本フェティッシュの結びつきを示す記述を掲げてこう。



M - M' (G - G′)において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。

In M-M' we have the irrational form of capital, in which it is taken as logically anterior to its own reproduction process; the ability of money or a commodity to valorize its own value independent of reproduction―the capital mystification in the most flagrant form”. In the case of joint-stock capital or financial capital, unlike industrial capital, accumulation is realized not through exploiting workers directly. It is realized through speculative trades.  But in this process, capital indirectly sucks up the surplus value from industrial capital of the lower level. This is why accumulation of financial capital creates class disparities, without people's awareness. That is currently happening with the spread of neo-liberalism on the global scale.

(柄谷行人、Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, 私訳)


ーーこの柄谷は資本論3巻の資本フェティッシュをめぐるつぎの箇所の注釈である。


利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)

利子生み資本全般はすべての狂気の形式の母である[Das zinstragende Kapital überhaupt die Mutter aller verrückten Formen](マルクス『資本論』第三巻第二十四節)


この資本フェティッシュとしての利子生み資本の、現在の世界資本主義時代における別名が、柄谷行人の英語論文にあるように金融資本である。すなわち金融資本は狂気の母であり、これが先に掲げたマイケル・ハドソンの言っている内実である。


……………


なおラカン派におけるフェティッシュの最も基本的な定義は無をヴェールすることであり、貨幣自体、本来的には無である。

我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」)


ーー「貨幣は無」であるのは岩井克人の『貨幣論』において歴史的に遡って詳述されているが[参照]、ここでは簡潔な文を引用するだけにしておく、《貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。》(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)



この無の別名が穴である。

装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。〔・・・〕実に私が剰余享楽と呼ぶものは、剰余価値であり、マルクス的快、マルクスの剰余享楽である。

la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. [...] C'est bien le cas de vérifier ce que je dis du plus-de-jouir. La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. (ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)

私が対象a(剰余享楽a)と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年)


つまり穴埋めとしての「剰余享楽=剰余価値」がフェティッシュにほかならない。


柄谷の言い方なら、一般人どころか学者たちでさえこのフェティッシュに気づいておらず、《知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれている》。


……問題は、この「力」 (交換価値)がどこから来るのか、ということです。マルクスはそれを、商品に付着する霊的な力として見出した。つまり、物神(フェティシュ)として。このことは、たんに冒頭で述べられた認識にとどまるものではありません。彼は『資本論』で、この商品物神が貨幣物神、資本物神に発展し、社会構成体を全面的に再編成するにいたる歴史的過程をとらえようとしたのです。〔・・・〕『資本論』が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、 物神的、つまり、観念的な力が支配する世界だということです。 〔・・・〕

マルクスはこう述べました。《商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる》(『資本論』第一巻1-2、岩波文庫1,p158)。いいかえれば、交換は、見も知らぬ、あるいは不気味な他者との間でなされる。 それは、他人を強制する「力」、しかも、共同体や国家がもつものとは異なる「力」を必要とします。これもまた、観念的・宗教的なものです。実際、それは「信用」と呼ばれます。マルクスはこのような力を物神と呼びました。《貨幣物神の謎は、商品物神の、目に見えるようになった、眩惑的な謎にすぎない》(『資本論』)。このように、マルクスは商品物神が貨幣物神、さらに資本物神として社会全体を牛耳るようになることを示そうとした。くりかえしていえば、 『資本論』 が明らかにしたのは、資本主義経済が物質的であるどころか、物神的、つまり、 観念的な力が支配する世界だということです。〔・・・〕

一方、経済的ベースから解放された人類学、政治学、宗教学などは、別に解放されたわけでありません。彼らは、それぞれの領域で見出す観念的な「力」がどこから来るのかを問わないし、問う必要もない、さらに、問うすべも知らない、知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれているのです。 (柄谷行人「交換様式論入門」2017年)




実は無をヴェールする必要のある人間の本性の指摘はヘーゲルにもある、フェティッシュという用語を使っていないだけで。

この全き空無[ganz Leeren]は至聖所[Heilige]とさえ呼びうる。我々は、その空無の穴埋めせねばならない、意識自体によって生み出される、夢想・仮象によって。何としても必死になって取り扱わねばならない何かがあると考えるのだ。というのは、何ものも空無よりはましであり、夢想でさえ空無よりはましだから。

damit also in diesem so ganz Leeren, welches auch das Heilige genannt wird, doch etwas sei, es mit Träumereien, Erscheinungen, die das Bewußtsein sich selbst erzeugt, zu erfüllen; es müßte sich gefallen lassen, daß so schlecht mit ihm umgegangen wird, denn es wäre keines bessern würdig, indem Träumereien selbst noch besser sind als seine Leerheit. (ヘーゲル『精神現象学』1807年)


もちろん人間の本性のフェティシズム的特性の指摘はフロイトにも当然ある。

フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕


幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Triebansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. 


我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。

Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


ーー《ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている[Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  ]》(Christian Hoffmann, Pas de clinique sans sujet, 2012)



ラカンの主体ーー厳密には斜線を引かれた主体$ーーは二重の価値をもっている。穴と穴埋め[le trou et le bouchon]である。フロイト的に言えばエスの主体と表象の主体である。後者の表象の主体(=シニフィアンの主体)こそ、見せかけであり、フェティッシュの主体にほかならない。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

シニフィアン私[signifiant « je » ](Lacan, S14, 24  Mai  1967)

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)


ーー《フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche]》(J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)



フロイトにとってエスとは欲動の身体的要求である。

エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章草稿、死後出版1940年)


誤解を恐れず簡潔に言ってしまえば、この欲動の身体に対する言語による否認=防衛をフロイトは先の自我分裂を巡る文で事実上フェティッシュと呼んでいるのである。


これが最晩年、死の年のフロイトである。

欲動要求と現実の抗議のあいだに葛藤があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen.  (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)

自我分裂の事実は、個人の心的生に現前している二つの異なった態度に関わり、それは互いに対立し独立したものであり、神経症の普遍的特徴である。もっとも一方の態度は自我に属し、もう一方はエスへと抑圧されている。

Die Tatsachen der Ichspaltung, …Dass in Bezug auf ein bestimmtes Verhalten zwei verschiedene Ein-stellungen im Seelenleben der Person bestehen, einander entgegengesetzt und unabhängig von einander, ist ja ein allgemeiner Charakter der Neurosen, nur dass dann die eine dem Ich angehört, die gegensätzliche als verdrängt dem Es. (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年)


この記述と先の自我分裂とフェティッシュを結びつけている文からわかることは、ある意味で、自我なる現実自体がフロイトにとってフェティッシュなのである。


カントにおいても自我は何ものでもない。

しかし、この学(自我をめぐる学)の根底にはわれわれは、単純な、それ自身だけでは内容の全く空虚な表象「自我」以外の何ものをもおくことはできない。自我という表象は、それが概念である、と言うことすらできず、あらゆる概念に伴う単なる意識である、と言うことができるだけである。

Zum Grunde derselben koennen wir aber nichts anderes legen, als die einfache und fuer sich selbst an Inhalt gaenzlich leere Vorstellung: Ich; von der man nicht einmal sagen kann, dass sie ein Begriff sei, sondern ein blosses Bewusstsein, das alle Begriffe begleitet.  (カント『純粋理性批判』)


カントの自我なる空虚、この自我を何か実体のあるものと幻想あるいは妄想するのが、事実上、フロイトラカンにおけるフェティッシュである。


人はほとんどみな自分の家の主人でない自我を主人とみなして語っている。

自我は自分の家の主人ではない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

自我はエスの組織化された部分に過ぎない[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)


したがって人はフェティシストであることが、フロイト観点からも正当化される。


さて、これを読んだアナタが、柄谷曰くの《知的に無惨な、そしてそのことに気づかないほどに無惨な状態に置かれている》のでないなら、おわかりになった筈である。これこそマルクスだけでなくカントやヘーゲルにもその示唆がある19世紀的知の遺産である。


自我のフェティシズムとは無のカーテンである。

内面世界を隠蔽していると思われている、いわゆるカーテンの背後には、見られるべき何ものもない (無しかない)[wenn wir nicht selbst dahintergehen, ebensosehr damit gesehen werde, als daß etwas dahinter sei, das gesehen werden kann].(ヘーゲル『精神現象学』1807年)


貨幣のフェティシズムと同様、自我の背後には無しかない。