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2024年7月7日日曜日

文学はマザコンのもの

 

古井由吉は本質的なことをサラリと言ってるがね、

大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏ーー「古井由吉氏を囲んで 座談会 古井由吉文学の神髄」)


この「文学はマザコンのもの」を否定できる人がいるだろうか。


これは文学だけではない。フロイトラカンにおいても、母はすべての人間にとって原誘惑者かつ原支配者だ。


母という人物は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。

Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. 


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


さらに原超自我でもある。

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]=《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)



ま、人はみなーー男も女もーー母なる女から逃れようがないんだよ、そして男は特に母の後継者である女から。



世の中に絶えて女のなかりせばをとこの心のどけからまし

世の中は金と女がかたきなりどふぞかたきにめぐりあひたい


ーー蜀山人太田南畝



女はその本質からして蛇であり、イヴである Das Weib ist seinem Wesen nach Schlange, Heva」――したがって「世界におけるあらゆる禍いは女から生ずる vom Weib kommt jedes Unheil in der Welt」(ニーチェ『アンチクリスト』1888年)



とはいえ世界が人工出産、つまり人がみな人工子宮から生まれてくる事態になったら変わるかもしれないね、

心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている。Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation.   (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)


あるいは乳児の養育者が男になったら少しは変わるよ

小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。対象の発見とは実際は、再発見である。Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. Die Objektfindung ist eigentlich eine Wiederfindung (フロイト『性理論』第3篇「Die Objektfindung」1905年)

男性によっての男児の養育(例えば古代における奴隷による教育)は、同性愛を助長するようにみえる[scheint die Homosexualität zu begünstigen]。今日の貴族のあいだの性対象倒錯の頻出は、おそらく男性の召使いの使用の影響として理解しうる。母親が子供の世話をすることが少ないという事実とともに。(フロイト『性理論三篇』1905年)



もっとも究極の重要性はやっぱり膝枕の先にあるものだよ、

老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。若い頃なら、忿怒だろうな、と覚めて思った。(古井由吉『辻』「白い軒」2006年)

わたしという存在は一身の過去の記憶の、よくも思い出せないものもふくめて、漠とした積み重ねの上に立つと取るのがまず穏当である。おのれの出生の時までは及ばないが、後に聞かされた出生の事情でも、我が身に照らしてつくづく思いあたる節があればこれも記憶、思い出せぬことながら、思い出せることよりも重い記憶になる。

しかし母胎の内にあった時、さらに受胎の時までさかのぼれば、はるか地の底の、忘却の湖に漂っているにひとしい。この忘却の内にすでに生涯の定めが萌しているとしたら、人の記憶ははかない、徒労のようなものになる。(古井由吉『この道』「たなごころ」2019年)


ここが変わらないと、母なる原誘惑者・原支配者・原超自我は変わりようがないだろうな。


超自我、すなわちエスの代理人であり、死の不安を齎す運命の力。

超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)

死の不安…自我が反応するその状況は、運命の力としての保護的超自我に見捨てられることであり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。

die Todesangst …daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年)


・・・でなんだっけ、伊勢神宮の夏越の大祓の幽玄だな、寄り道したけど。


伊勢神宮は偉大じゃないかね、アマテラスを祀ってあるんだから。あれこそ本来の神だよ、

歴史的発達の場で、おそらく偉大な母なる神が、男性の神々の出現以前に現れる。〔・・・〕もっともほとんど疑いなく、この暗黒の時代に、母なる神は、男性諸神にとって変わられた。Stelle dieser Entwicklung treten große Muttergottheiten auf, wahrscheinlich noch vor den männlichen Göttern, […] Es ist wenig zweifelhaft, daß sich in jenen dunkeln Zeiten die Ablösung der Muttergottheiten durch männliche Götter (フロイト『モーセと一神教』3.1.4, 1939年)

一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)


以上、神はマザコンのものだーー。


より具体的にはーーあくまでフロイト的精神分析に準拠して言うがーー母なる対象の喪失に対する不安が神の起源である。

われわれが明確な線を辿って追求できることは、幼児の寄る辺なさという感情までが宗教的感情の起源である[Bis zum Gefühl der kindlichen Hilflosigkeit kann man den Ursprung der religiösen Einstellung in klaren Umrissen verfolgen](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)

寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)

母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (『制止、症状、不安』第8章、1926年)


で、原喪失は子宮の喪失だよ、ーー《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(『制止、症状、不安』第10章、1926年)。マトモナ神社の内宮に飾ってあるのはコレじゃないかね。



すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。


而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ〳〵移つて行くに連れて、愈強くなつて来た懐郷心とするのである。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」初出:1920(大正9)年5月)

……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


私はちょっとした折口ファンでね、ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)