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2024年7月5日金曜日

伊勢神宮における夏越の大祓ーーその幽玄

 

▶︎動画


実に見事だね。荘厳というのかね、幽という字を使いたいところでもあるな、幽玄と。




類稀なる日本の美だ、世界に誇っていい。

で、やっぱり最低限、年に二回はお祓いしないとな。鳥居をくぐって。

◼️神社の参拝、鳥飼八幡宮 2019年12月28日

参道は、お産の時の産道を表していると言われています。


鳥居は、女性が足を開いて立っている姿、つまり股を表し、社殿は、女性の子宮にあたると言われています。


神社をお宮というのはそのためです。


参拝とは、参道(産道)を通り、お宮(子宮)でお参りをし、産道を通り鳥居を出て、再び外の世界へ出るということなのです。


ーーこの手の指摘は数多ある[参照]。



とはいえ老子的でもある、鳥居は玄牝之門、社殿は孔徳之容だろうから。



《谷神不死。是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。》(老子「道徳経」第六章「玄牝之門」)


谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ。(老子「玄牝之門」福永光司訳)


《孔徳之容、唯道是従。道之為物、唯恍唯惚。惚兮恍兮、其中有象。恍兮惚兮、其中有物。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。》(老子『道徳経』第二十一章)


女性的な「徳(はたらき)」の深い孔のようなゆとりにそって「道」はただ進むだけだ。この道が物を作るのは、ただ恍惚の中でのことだ。恍惚の中で象(かたち)がみえる。その恍惚の中に物があるのだ。そしてその奥深くほの暗い中に精が孕まれる。この精こそ真に充実した存在であって、その中に信が存在する。(老子「孔徳之容」保立道久訳)



ところで、数ヶ月ほどまえ最晩年の吉本隆明の文を偶然拾ったのだが、何だか思い出しちゃったよ、あの玄牝之門を潜るイマーゴの幽玄さに戦慄しつつ。

天皇を政治的な立場から外せば天皇制という仕組みがなくなると単純に思っているひとがいるが、僕はそうは思っていない。僕らが縁日で金魚すくいをやっている限りは、神道の名残は残ると思っています。それと同じように天皇の名残も残り続けるのです。縁日に行って神社に露店が無くなったときに初めて、日本の神道がなくなるように原始からの何層もの積み重ねが現代の日本を形作っているのです。(吉本隆明「真贋」2007年)


そもそも日本の原始的な宗教性は神道にあり精神的な活動をされる方の多くは神道にもとづいています。……


天皇の地位や存在についても起源からたどっていけばこのように考えることができるのです。……


文学でいえば柳田国男や折口信夫が僕らを満足させる考え方にひとりで到達しており感心します。(吉本隆明「真贋」2007年)



吉本隆明は昔からこの毛があった、柳田国男や折口信夫の、特に後者の大嘗祭解釈の影響が核にある。もっとも現在の学者は折口の洞察をおおむね否定しているらしいが、それはほとんど常にヤムエナイ現象である。


学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の偉大な問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)



最後に1974年時点での吉本隆明の天皇制解釈を掲げておこう。

じっさいに〈天皇(制)〉が農耕社会の政治的な支配権をもたない時期にも〈自分ハソノ主長ダカラ農耕民ノタメ、ソノ繁栄ヲ祈禱スル〉というしきたりを各時代を通じて世襲しえたとすれば、この世襲には〈幻想の根拠〉または〈無根拠の根拠〉が、あるひとつの 〈威力〉となって付随することは了解できないことはない。いま、〈大多数〉の感性が〈ワレワレハオマエヲワレワレノ主長トシテ認メナイ〉というように否認したときにも、〈天皇(制)〉が〈ジブンハオマエタチノ主長ダカラ、オマエタチノタメニ祈禱スル〉と応えそれを世襲したとすれば、この〈天皇(制)お 〉の存在の仕方には無気味な〈威力〉が具備されることはうたがいない。わたしの考察では、これが各時代を通じて底流してきた〈天皇(制)〉の究極的な〈権威〉の本質である。(吉本隆明 「天皇および天皇制について」 『詩的乾坤』国文社 1974.9.10)