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2024年7月8日月曜日

民主主義は幻想(Neema Parvini)

 


ニーマ・パルヴィーニ Neema Parviniという英-イランの学者ーーもともとはシェイクスピア研究者らしいーーが民主主義についてこう言っているそうだ。



文字にして引用しておこう(最初の文だけ英文を拾えたのでそれも併せて)。


◾️『ポピュリストの妄想』ニーマ・パルヴィーニ、2022年

The Populist Delusion - Neema Parvini 2022

本書のテーゼは、民主主義は今も昔も幻想であり、組織化された少数エリートが無秩序な大衆を支配するという権力の真の機能は、「国民が主権者である」という嘘によって隠蔽されているというものである。

The thesis of this book has been that democracy is and always has been an illusion, in which the true functioning of power where an organised minority elite rule over a disorganised mass is obscured through a lie that ‘the people is sovereign’.

私がこれを「ポピュリストの妄想」と呼んだのは、この中心的な嘘が隠している他の嘘の数々、とりわけボトムアップ・パワーや「ピープルパワー」の神話と、この嘘が作り出す全く不正確な歴史観のためである。緊密に組織化された少数派に代わるものは決して存在しない。


ポピュリズム運動を構成する人々は、学校の公民や歴史の授業で教えられた誤った政治的公式の再定式化を信じていたのである。社会変革は「ボトムアップ」現象であるという神話は、私たちの文化や思考に浸透している。それは1960年代のカウンターカルチャーとベビーブーム世代の世界観の本質的な虚構である。

話を続ける前に、「トップダウン」や「エリート主導」の変化が何を意味するのかを強調しておきたい。これらのフレーズは、傍目には見えないところで操り人形を操る影の組織を連想させるかもしれないが、そう理解すべきではない。


むしろ、 ボトムアップとは対照的な「トップダウン」の変化の特徴は、 無秩序な大衆に対して少数派が緊密に組織化されているという事実である。


この意味での「エリート」とは、現在権力を握っているエリートかもしれないし、彼らに取って代わろうとする一連の「対抗エリート」(カウンターエリート)かもしれない。


前者の場合、1960年代の公民権運動、さまざまなLGBT運動、ブラック・ライブズ・マター、グレタ・トゥンバーグと絶滅の反乱などの例を挙げることができる。

このような場合、現在の権力構造は、国家とその組織(教育、国家が支援するメディアなど)の正式な構造を利用した法的手段であれ、非政府組織(NGO)や企業のロビー団体であれ、その多大な影響力と資源を利用して、エリートのプロジェクトに同意を取り付け、民衆が支持しているように見せかけるのである2。


政治的変化をもたらそうとする人々が、大衆迎合的な方法を採用したり、ある時点で大衆の臨界点が突然「転換点」に達し、その後にエリートが必然的に倒されると信じたりしていては、それを望むことはできない。


変革には常に協調的な組織が必要であり、単に自分の主張を多くの人々に納得させるだけでは達成は望めない。権力は、最終的な分析においては、あなたがツイッターのアカウントでどれだけの「いいね!」を獲得したかなんて気にも留めない。実際には、多くの人々は変革の後に新しい現実に順応し、新しい権力体制に方向転換するのである。


革命が起こるのは、現在の支配階級が権力を維持する能力と決意を失い、民衆の不満が広まり、その空白を埋めるために対抗エリートがイニシアチブを握る準備ができたときだけである。「反乱は起こるものであり、革命は起こされるものである」




これは基本的には「デマゴギーなきデモクラシーはない」で記したこととほぼ同じ思考だ。ーー《デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。》(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』より)


なおこのデモクラシーとデマゴギーは次の意味なので注意されたし。


民主主義と訳されるデモクラシー(democracy)の語源は古代ギリシア語の δημοκρατία(dēmokratía)、大衆・民衆 δμος(dêmos)と支配・力 κράτος(kratos)を組み合わせた語。つまり「大衆の支配」「民衆の力」を意味する。

デマゴーグ(demagogue)はギリシア語の δημαγωγός に由来し、大衆 δμος+指導者 γωγός 、つまり「大衆の指導者」であり、本来は悪い意味はないが、次第に人々の感情や偏見に訴える大衆煽動者の意味を持つようになる。一般に彼らの民衆煽動をデマゴギー(Demagogie)と呼ぶ。


大衆は、いつの時代でも基本的には無知であり、大衆の指導者が必要不可欠である。無知というより短視眼といったほうがいいかもしれないが。

大衆は怠惰で短視眼である。大衆は欲動断念を好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。 die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit.(フロイト『ある幻想の未来』第1章、1927年)




ところで宮台真司が次のように言ってるようだね、




こうとしか言いようがないね、特に21世紀に入って以前にも増して愚かさが進歩したからな。



フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)