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2023年9月27日水曜日

デマゴギーなきデモクラシーはない

 

何度か掲げているが、古井由吉が西部邁との対話で言っているのは、「デマゴギーなきデモクラシーはない」ということだ。


古井由吉)デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。


そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。


それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』より)


民主主義と訳されるデモクラシー(democracy)の語源は古代ギリシア語の δημοκρατία(dēmokratía)、大衆・民衆 δμος(dêmos)と支配・力 κράτος(kratos)を組み合わせた語。つまり「大衆の支配」「民衆の力」を意味する。


デマゴーグ(demagogue)はギリシア語の δημαγωγός に由来し、大衆 δμος+指導者 γωγός 、つまり「大衆の指導者」であり、本来は悪い意味はないが、次第に人々の感情や偏見に訴える大衆煽動者の意味を持つようになる。一般に彼らの民衆煽動をデマゴギー(Demagogie)と呼ぶ。


大衆は、いつの時代でも基本的には無知であり、大衆の指導者が必要不可欠である。無知というより短視眼といったほうがいいかもしれないが。ーー《大衆は怠惰で短視眼である。大衆は欲動断念を好まず、いくら道理を説いてもその必要性など納得するものではなく、かえって、たがいに嗾しかけあっては、したい放題のことをする。 die Massen sind träge und einsichtslos, sie lieben den Triebverzicht nicht, sind durch Argumente nicht von dessen Unvermeidlichkeit zu überzeugen, und ihre Individuen bestärken einander im Gewährenlassen ihrer Zügellosigkeit.》(フロイト『ある幻想の未来』第1章、1927年)



そしてこの目先のことばかりに囚われた大衆を導く者が大衆煽動家になって衆愚政治なってしまうーーこれを免れうる可能性なんてのはほとんど想像し難いね。



ここで蓮實重彦がフローベールの友人マクシム・デュ・カンを主人公とした物語からデマゴギーに触れた箇所を引いておこう。


人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)



ここで蓮實の言っている「説話論的な形態」については、「風景は教育する」を参照。基本的にはフローベール、とくにその紋切型辞典に起源がある。


フローベールの発言のいくつかは「フローベールの予言」を参照。


ここではそこからクンデラによるフローベールのみを掲げる。



フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



最近は、いわゆる「知識人」でも、文章で書けば5分で済む内容を、YouTubeなどで長々と話たがる連中がふんだんにいるが、あれも愚かさが進歩した時代のデマゴーグだよ。もはや救いようがないね。