この点に於て、男は女とはかなり違う、➡︎「男と女のあいだの裂け目」
あるいは、「すべての愛の原点には女を愛することがある」、男にとっても女にとっても。女たちが女を愛するとは、ナルシシズム(フロイト)、あるいは被愛妄想(ラカン)だね。
われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。〔・・・〕
|
もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想 にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る。
(フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)
|
対象に対して男女の性の位置が異なるとすれば、それは男のフェティッシュ形式と女の被愛妄想形式の愛を隔てる距離のすべてである。Si la position du sexe diffèr e quant à l'objet, c'est de toute la distance qui sépare la forme fétichiste de la forme érotomaniaque de l'amour. (ラカン「女性のセクシャリティについての会議のためのガイドライン」E733、1960年)
|
こういうことを記すと、「古い」と脊髄反射するフェミニスト系のオネエサンがいるんだろうが、自我は時代とともに変わるにしろ、エスは変わらないよ。
人類は、おそらく十万年ぐらいは、生理的にほとんど変化していないと見られている。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)
|
"psycho-" は自我に当たり、エスは "biological" に相当するとしましょう。これ(自我)が一番変動しやすいものです。人体のほうは十万年ぐらい変わりません。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
|
最近の社会学系の研究者は「自我心理学」に閉じこもっているから厄介だが、エス(欲動の身体)が100年や200年、いや1000年や2000年程度で変わるわけがない。
ざっくり言えば、安吾曰くの「思考する肉体」がエスの身体、「肉体なき思考」が自我の言語だな。
素子とは何者であるか? 谷村の答へはたゞ一つ、素子は女であつた。そして、女とは? 谷村にはすべての女がたゞ一つにしか見えなかつた。女とは、思考する肉体であり、そして又、肉体なき何者かの思考であつた。この二つは同時に存し、そして全くつながりがなかつた。つきせぬ魅力がそこにあり、つきせぬ憎しみもそこにかゝつてゐるのだと谷村は思つた。 (坂口安吾「女体」1946年)
|
女が真実を語るのは、言葉でなしに、からだでだ。(坂口安吾「恋をしに行く」1947年)
|
|