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2023年9月29日金曜日

父の死は文学から快楽を奪うだろう


父の蒸発 [évaporation du père](ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)



学園紛争を契機に、父なき時代が始まった。それ以前から父の機能の劣化はあったにしろ、西側世界において、エディプス的父が真に凋落したのは1970年以降だろう。


父の死[La mort du Père]は、文学から多くの快楽を奪うだろう。「父」がいなければ、物語を語っても、何になろう。物語はすべてエディプスに帰着するのではなかろうか。物語るとは、常に、起源を求め、「掟」との紛争を語り、愛と憎しみの弁証法に入ることではなかろうか。今日、エディプスと物語が同時に揺らいでいる。もう愛さない。もう恐れない。もう語らない。フィクションとしてのエディプスは少なくとも何かの役には立っていた。よい小説を作ることの、上手に物語ることの。

La mort du Père enlèvera à la littérature beaucoup de ses plaisirs. S'il n'y a plus de Père, à quoi bon raconter des histoires? Tout récit ne se ramène-t-il pas à l'Œdipe? Raconter, n'est-ce pas toujours chercher son origine, dire ses démêlés avec la Loi, entrer dans la dialectique de l'attendrissement et de la haine ? Aujourd'hui on balance d'un même coup l'Œdipe et le récit : on n'aime plus, on ne craint plus, on ne raconte plus. Comme fiction, l'Œdipe servait au moins à quelque chose : à faire de bons romans, à bien raconter . 

(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)



バルトの言っていることは「ある程度」正しいだろうね、一般的に文学とくに物語はつまらなくなったよ。もともと父とは母の代理だが、父の死以降は、事実上、母しかいないんだから。


エディプスコンプレックスにおける父の機能は、象徴化を導入する最初のシニフィアン(原シニフィアン)、母なるシニフィアンの代理シニフィアンである[La fonction du père dans le complexe d'Œdipe, est d'être  un signifiant substitué au signifiant, c'est-à-dire au premier signifiant introduit dans la symbolisation,  le signifiant maternel.  ](Lacan, S5, 15 Janvier 1958)



現在でも、無理やり父を捏造して小説を書いている作家もいないではないがーー特にフェミ系にはーー、底の浅さが歴然としてるよ


坂口安吾や中上健次も父なき環境のなかで小説を書くのに苦労したんだろうよ。




六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。〔・・・〕


六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。


十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。


二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。


二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。


四十四が精神病院入院の年。(「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」1951(昭和26)年12月)


➡︎安吾備忘「母」




三月三日の朝、確かに男は路地の美恵の家の柿の木で、二十四の齢に首をつった。美恵は秋幸が二十四の時、古市が安男に刺され死んだ事がもとで気がふれた。それが、秋幸が生まれて二十六年の今までに親の血でつながったきょうだいに起こった大きな出来事だった。いや昔の事だった。秋幸はふと、郁男を思った。秋幸はまだ十一か十二の子供だった。


郁男は、美恵が実弘と駆け落ちして二人で住んでいた路地の家を出た後、酒を飲む度に、秋幸の家へ来た。 殺してやると、まだ雨戸を開けていない玄関の間の畳に包丁をつき刺した。 秋幸は男を憎んだ。 突然死んだと知ってざま見ろと思った。秋幸はフサの顔を見ながら、 そんな事でもそれが昔の話だからいい、と思った。

秋幸は立ちあがった。だが秋幸の半分で起こった事は昔の事でなく、今の今だ。秋幸はそう思い、男が有馬に建てた浜村孫一終焉の碑を思い浮かべた。それは男の、血が固まったものだった。永久に勃起した男根だった。熱病だった。そして人が噂するように自分が金を持ち、 土地を持った勝利の記念だった。 秋幸は男の考えが、フサや三人の姉たちとまるっきり反対なのに気づいた。(中上健次『枯木灘』)


熊野に、性意識に目醒めた若者や娘を、アニ、イネと呼ぶ形がある。さらに古座に、若者をアイヤと呼ぶ形がある。アイヤは兄者(アニジャ)の変形であろうが、そう漢字にすると死んだ黒田善夫の詩の遊撃の重要なタームであるアンニヤとも重なるのが容易に見てとれる。古層が居残り続けた熊野と黒田善夫の凝視した東北の農村まで、アニ、アイヤ、アンニヤなる若衆らの層が存在するという想像ははなはだ刺激的だ。


アイヤ、アンニヤなる母系の男たち。それが父の不在の母系で決定的な役割を荷っている。アニ、アイヤは、母との身体の戯れを終え、母との差異を確認した若者らである。母の子供である状態から抜け出、子供らの男親にもなれる。アイヤは共同体の中で独得な位置を占める。


このアニ、アイヤの延長上に浜村龍造があり、竹原秋幸が存在する。竹原秋幸には浜村龍造は父ではない。もちろん、義父の竹原繁蔵も父ではない。〝南〟の濃密な熊野で、もともとから父は存在しないのだ。ただオトコオヤだけが存在する。「枯木灘」も「地の果て至上の時」も父の不在を自覚したアイヤらの物語だ。


「地の果て 至上の時」の、オルフェスの冥界行のようにバスに乗り換えて下獄する秋幸は、父の不在が、母系社会の愉楽を形づくり、そこから逸脱した途端、母系社会が非倫理的で、ただ破壌の相貌をしか持っていないのを目撃する。秋幸が眼にしたのは、アイヤとしての浜村龍造であり、ニセの母を装う浜村龍造だ。アイヤから父に逸脱するには浜村龍造は、自己を粒子ほどにしてしまうほどの膨大な神話や物語が要るのを知っているし、また逸脱の不可能を知っている。しかし取りあえず物語る必要がある。

浜村龍造はまさにバリ島の母として、すでに母フサから充分すぎる刷り込みを受けた秋幸に、身体の戯れを試みる。二人は山の中に入ってゆく。母を擬装する浜村龍造と、すでにアニ、アイヤの身にもかかわらず子として擬装する秋幸。母フサは何故、怒るのだろうか。


フサはさながら魔女ランダである。母を擬装した浜村龍造の術にかかる秋幸の無意識に対して、魔女ランダたるフサは、母系の長として怒っている。たまたま分かり易い例として「地の果て 至上の時」を使っているだけで、他意はない。権力の誕生、あるいは「古事記」という神話がそうであるように、原初の国家誕生を描くのなら、秋幸はこの魔女ランダを殺さなければならない。逸脱した秋幸の真の敵は、母フサであるはずだ

秋幸が犯したとされる近親姦も、浜村龍造への殺意も、単純な世の中にはびこった父-母-私、あるいは、パパ-ママ-ボクの、まことにキック力のない構造認識から出たもので、作者が、どのように深刻に秋幸を悩ませてみたところで、何の意味も持たない。秋幸の禁忌への抵触は、あるいは禁忌の出来る以前の始原への要求は、フサを殺し、姉を犯す事である。擬装した母を殺したとしても、カタルシスはない。秋幸はもうすでに気づいている。浜村龍造は擬装しつづけ、擬装の母として首をくくる。


「地の果て 至上の時」はそこまでで終っているが、母系社会のアニ、浜村龍造が死んだ後、秋幸は死んだアニから付与された魔術を元に、魔女ランダと終りのない闘いに入ってゆく。(中上健次「もうひとつの国」「南の記憶Ⅱ」所収)



……………………



(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


➡︎母の名について





全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制(家母長制)の青白い反影にすぎない[the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system] (PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)

全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère,](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)




とはいえ日本にはもともと父なんかいなかったという観点もある。エディプス的父は一神教の世界の話であり、日本に於て明治以降1945年まで擬似一神教の天皇制がいくらか機能して小説が面白くなっただけでさ。


思想史が権力と同型であるならば、日本の権力は日本の思想史と同型である。日本には、中心があって全体を統い御するような権力が成立したことがなかった。〔・・・〕あらゆる意志決定(構築)は、「いつのまにかそう成る」(生成)というかたちをとる。〔・・・〕日本において、権力の中心はつねに空虚である。だが、それも権力であり、もしかすると、権力の本質である。〔・・・〕


見かけの統合はなされているが、それは実は空虚な形式である。私は、こうした背景に、母系制(厳密には双系制)的なものの残存を見たいと思っている。それは、大陸的な父権的制度と思考を受け入れながらそれを「排除」するという姿勢の反復である。


日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人「フーコーと日本」1992年 )


…………………



※附記


かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〔・・・〕

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)


この中井久夫の鉤括弧付き「超自我」は父なる超自我であり、フロイト・ラカンにはその底に母なる超自我がある。


「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。

Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel :   […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ?    (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)


フロイトはこう言っている。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem lMenschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)


ーー高等動物にもある幼児の依存[kindlicher Abhängigkeit]はもちろん《母への依存性[Mutterabhängigkeit]》(フロイト『女性の性愛 』第1章、1931年)である。

これ自体、ラカンは既にセミネール5の段階で言っている。


母なる超自我は原超自我である[le surmoi maternel… est le surmoi primordial ]〔・・・〕母なる超自我に属する全ては、この母への依存の周りに表現される[c'est bien autour de ce quelque chose qui s'appelle dépendance que tout ce qui est du surmoi maternel s'articule](Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)



他方、ラカン曰くの「父なる超自我」は、父の名であり、事実上、フロイトの自我理想である(参照)。