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2022年1月10日月曜日

安吾備忘「母」

 


坂口安吾の母アサは1942 (昭和17) 年2月16日、安吾36歳時に亡くなっている。そして安吾自身は1955 (昭和30) 年2月17日早朝に脳出血により急逝した。享年48歳である。


1951年の彼はこう書いている。


六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。〔・・・〕


六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。 


二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。 


二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。 


四十四が精神病院入院の年。

(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」初出:「オール読物 第六巻第一二号」1951(昭和26)年12月1日発行)



六ツ七ツという母とのあいだの出来事を《どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた》とある。だがその後の死までの三年のあいだに母をめぐる直接的な書き物は、私の知る限りない。では彼はそれを書かずに死んでしまったという風に捉えるべきか。


もちろん1935年と1946年に書かれた母をめぐる痛切な自伝的作品がある。「をみな」と「石の思ひ」である。1951年の安吾はおそらくこれでは足りないと思ったのだろう、まだ気持が真には澄んでいない作品だと思ったのだろう。



「をみな」坂口安吾 1935年

母。――異体の知れぬその影がまた私を悩ましはじめる。 


私はいつも言ひきる用意ができてゐるが、かりそめにも母を愛した覚えが、生れてこのかた一度だつてありはしない。ひとえに憎み通してきたのだ「あの女」を。母は「あの女」でしかなかつた。 


九つくらゐの小さい小学生のころであつたが、突然私は出刃庖丁をふりあげて、家族のうち誰か一人殺すつもりで追ひまはしてゐた。原因はもう忘れてしまつた。勿論、追ひまはしながら泣いてゐたよ。せつなかつたんだ。兄弟は算を乱して逃げ散つたが、「あの女」だけが逃げなかつた。刺さない私を見抜いてゐるやうに、全く私をみくびつて憎々しげに突つ立つてゐたつけ。私は、俺だつてお前が刺せるんだぞ! と思つただけで、それから、俺の刺したかつたのは此奴一人だつたんだと激しい真実がふと分りかけた気がしただけで、刺す力が一時に凍つたやうに失はれてゐた。あの女の腹の前で出刃庖丁をふりかざしたまま私は化石してしまつたのだ。


そのときの私の恰好が小鬼の姿にそつくりだつたと憎らしげに人に語る母であつたが、私に言はせれば、ふりかざした出刃庖丁の前に突つたつた母の姿は、様々な絵本の中でいちばん厭な妖婆の姿にまぎれもない妖怪じみたものであつたと、時々思ひ出して悪感がしたよ。三十歳の私が、風をひいたりして熱のある折、今でもいちばん悲しい悪夢に見るのがあの時の母の気配だ。姿は見えない。だだつぴろい誰もゐない部屋のまんなかに私がゐる。母の恐ろしい気配が襖の向ふ側に煙のやうにむれてゐるのが感じられて、私は石になつたあげく気が狂れさうな恐怖の中にゐる、やりきれない夢なんだ。母は私をひきづり、窖のやうな物置きの中へ押しこんで錠をおろした。あの真つ暗な物置きの中へ私はなんべん入れられたらうな。闇の中で泣きつづけはしたが、出してくれと頼んだ覚えは殆んどない。ただ口惜しくて泣いたのだ。


あれほど残酷に私一人をいぢめぬくためには、よほど重大な原因があつたのだらう。私の生れた時は難産で、私が死ぬか、母が死ぬかの騒ぎだつたと母の口からよくきいたが、それが原因の一つだらうか。原因はなんでもいいさ。私を大阪の商人に養子にやると母が憎々しげに嘘をついて私をからかつたときのこと、私がまにうけて本気に喜んでしまつたので、母が流石にまごついた喜劇もある。それから、実は私が継子で、私のほんとの母親は長崎にゐると嘘を語つて、母は私をからかうことが好きだつたが、その話の嘘らしいのが私に甚だ悲しかつた。私は七つ八つから庭の片隅の物陰へひとりひそんで、見も知らぬふるさと長崎の夢を見るのが愉しかつた。 

私の子供の頃の新潟の海では、二尋ばかりの深さの沖へ泳ぎでて水へくぐると、砂の上に大きな蛤の並んでゐるのを拾ふことができたものだ。私は泳ぎがうまく、蛤や浅利を拾ふ名手であつた。十二三の頃の話だ。夏も終りに近い荒天の日で、町にゐても海鳴りのなりつづく暗澹たる黄昏時のことであつたが、突然母が私を呼んで、貝が食べたいから海へ行つてとつてきてくれと命じた、あるひはからかつたのだ。からかひ半分の気味が癪で、そんならいつそほんとに貝をとつてきて顔の前に投げつけてやらうと私は憤つて海へ行つた。暗い荒れた海、人のゐない単調な浜、降りだしさうな低い空や暮れかかる薄明の中にふと気がついて、お天気のいい白昼の海ですら時々妖怪じみた恐怖を覚える臆病者の私は、一時はたしかに悲しかつたが、やがて激しい憤りから殆んど恐怖も知らなかつた。浪にまかれてあへぎながら、必死に貝を探すことが恰も復讐するやうに愉しかつたよ。とつぷり夜が落ちてから漸く家へ戻つてきて、重い貝の包みを無言でズシリと三和土の上へ投げだしたのを覚えてゐる。その時、私がほんとは類ひ稀れな親孝行で誰れにも負けない綺麗な愛をかくしてゐると泣きだした女が一人あつたな。腹違ひの姉だつた。親孝行は当らないが、この人は、私の兄姉の中で私の悲しさのたつた一人の理解者だつたが。…… 


さて、こんな風な母と私だ。


ところが私の好きな女が、近頃になつてふと気がつくと、みんな母に似てるぢやないか! 性格がさうだ。時々物腰まで似てゐたりする。――これを私はなんと解いたらいいのだらう! 


私は復讐なんかしてゐるんぢやない。それに、母に似た恋人達は私をいぢめはしなかつた。私は彼女らに、その時代々々を救はれてゐたのだ。所詮母といふ奴は妖怪だと、ここで私が思ひあまつて溜息を洩らしても、こいつは案外笑ひ話のつもりではないのさ。〔・・・〕


惚れない女を愛すことができるかと? 貴殿はそれをききなさるか? もとより貴殿は男であらう筈はない。 


惚れてはゐないが然し愛さずにはゐられない女なしに私は生きるはりあひがない。貴殿の逆鱗にふれることは一向怖ろしくもないのだが、偽悪者めいた睨みのきかない凄文句ではなからうかとヒヤリとしてみたまでのこと。〔・・・〕


女に惚れる、別れる、ふられる、苦しむ、嘆く、そんなことは実はどうでもいいことなんだ。 

惚れるも易い、別れるも易い、また悲しむも易からう。けれど、女に惚れ、女に別れたあとで、さて、何事を改めてやりだせといふのだ? 友よ、何を改めてやりだしたらいい? 言つてみろ! 畜生! 俺がそれを知つてゐたら、誰がくそ一々放埒に結びつけて、こんなセンチメンタルな悲哀なんぞを感じるかといふのだ!(坂口安吾「をみな」初出:「作品 第六巻第一二号」1935(昭和10)年12月1日発行)




「石の思ひ」坂口安吾 1946年

私の父は私の十八の年(丁度東京の大地震の秋であつたが)に死んだのだから父と子との交渉が相当あつてもよい筈なのだが、何もない。私は十三人もある兄弟(尤も妾の子もある)の末男で下に妹が一人あるだけ父とは全く年齢が違ふ。〔・・・〕


だから私は父の愛などは何も知らないのだ。父のない子供はむしろ父の愛に就て考へるであらうが、私には父があり、その父と一ヶ月に一度ぐらゐ呼ばれて墨をする関係にあり、仏頂面を見て苛々何か言はれて腹を立てゝ引上げてくるだけで、父の愛などと云へば私には凡そ滑稽な、無関係なことだつた。〔・・・〕


私の家は昔は大金満家であつたやうだ。徳川時代は田地の外に銀山だの銅山を持ち阿賀川の水がかれてもあそこの金はかれないなどと言はれたさうだが、父が使ひ果して私の物心ついたときはひどい貧乏であつた。まつたくひどい貧乏であつた。借金で生活してゐたのであらう。尤も家はひろかつた。使用人も多かつた。出入りの者も多かつたが、それだけ貧乏もひどかつたので、母の苦労は大変であつたのだらう。だから母はひどいヒステリイであつた。その怒りが私に集中してをつた。〔・・・〕


夜になつて家へ帰ると、母は門をしめ、戸にカンヌキをかけて私を入れてくれない。私と母との関係は憎み合ふことであつた。 


私の母を苦しめたのは貧乏と私だけではないので、そのころは母に持病があつて膀胱結石といふもので時々夜となく昼となく呻り通してゐる。そのうへ、私の母は後妻で、死んだ先妻の子供に母といくつも年の違はぬ三人の娘があり(だから私の姉に当るこの三人の人達の子供、つまり私には姪とか甥に当る人達が実は私よりも年上なのである)この三人のうち上の二人が共謀して母を毒殺しようとしモルヒネを持つて遊びにくる、私の母が半気違ひになるのは無理がないので、これがみんな私に当ることになる。私は今では理由が分るから当然だと思ふけれども、当時は分らないので、極度に母を憎んでゐた。母の愛す外の兄妹を憎み、なぜ私のみ憎まれるのか、私はたしか八ツぐらゐのとき、その怒りに逆上して、出刃庖丁をふりあげて兄(三つ違ひ)を追ひ廻したことがあつた。私は三つ年上の兄などは眼中に入れてゐなかつた。腕力でも読書力でも私の方が上である自信をもち、兄のやうな敬意など払つたことがなかつた。それほど可愛らしさといふものゝない、たゞ憎たらしい傲慢なヒネクレ者であつた。いくらか環境のせゐもあつても、大部分は生れつきであつたと思ふ。〔・・・〕


八ツぐらゐの時であつたが、母は私に手を焼き、お前は私の子供ではない、貰ひ子だと言つた。そのときの私の嬉しかつたこと。この鬼婆アの子供ではなかつた、といふ発見は私の胸をふくらませ、私は一人のとき、そして寝床へはいつたとき、どこかにゐる本当の母を考へていつも幸福であつた。私を可愛がつてくれた女中頭の婆やがあり、私が本当の母のことをあまりしつこく訊くので、いつか母の耳にもはいり、母は非常な怖れを感じたのであつた。それは後年、母の口からきいて分つた。


母と私はやがて二十年をすぎてのち、家族のうちで最も親しい母と子に変つたのだ。私が母の立場に理解を持ちうる年齢に達したとき、母は私の気質を理解した。私ほど母を愛してゐた子供はなかつたのである。母のためには命をすてるほど母を愛してゐた。その私の気質を昔から知つてゐたのは先妻の三番目の娘に当る人で、上の二人は母を殺さうとしたが、この三番目は母に憎まれながら母に甘えよりかゝつてゐた。その境遇から私の気質がよく分り、私が子供のとき、暴風の日私が海へ行つて荒れ海の中で蛤をとつてきた、それは母が食べたいと言つたからで、母は子供の私が荒れ海の中で命がけで蛤をとつてきたことなど気にもとめず、ふりむきもしなかつた。私はその母を睨みつけ、肩をそびやかして自分の部屋へとぢこもつたが、そのときこの姉がそッと部屋へはいつてきて私を抱きしめて泣きだした。だから私は母の違ふこの姉が誰よりも好きだつたので、この姉の死に至るまで、私ははるかな思慕を絶やしたことがなかつた。この姉と婆やのことは今でも忘れられぬ。私はこの二人にだけ愛されてゐた。他の誰にも愛されてゐなかつた。〔・・・〕


私の母は継娘に殺されようとし、又、持病で時々死の恐怖をのぞき、私の子供の頃は死と争つてヒステリーとなり全く死を怖れてゐる女であつたが、年老いて、私と和解して後は凡そ死を平然と待ちかまへてゐる太々しい老婆であつた。私には死を突き放した太々しさは微塵もなく、凡そ死を怖れる小心だけが全部の私の思ひなのだが、私は然し、母から私へつながつてゐる異常な冷めたさを知つてゐる。〔・・・〕


かういふ茫洋たる女だからめつたに思ひつめて憎んだりしないが、二人の継娘と私のことだけは憎んだので、かういふ女に憎まれては、子供の私がほと〳〵難渋したのは当然であり、私は小学校のときから、家出をしようか自殺しようか、何度も迷つたことがあつた。私が本来ヒネクレた上にもヒネクレたのは当然で、私は小学校の時から一文の金も貰へず何も買つて貰へないので、盗みを覚えた。中学へ行つても一文の小遣ひも貰へない。私は物を持ちだして売り、何でも通帳で買つてヂャン〳〵人にやつた。欲しくない物まで買つた。私が使ふ為でなく人にやるためだ。人に物をやるのは人に愛されたい為ではなく、母を嘆かせるためで、母に対する反抗からであつた。したがつて、私の胸の真実は常にはりさけるやうであつた。〔・・・〕


私は「家」といふものが子供の時から怖しかつた。それは雪国の旧家といふものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだつ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪咀の如きものが漂つてゐるやうに感じられる。住む人間は代々の家の虫で、その家で冠婚葬祭を完了し、死んでなほ霊気と化してその家に在るかのやうに形式づけられて、その家づきの虫の形に次第に育つて行くのであつた。〔・・・〕


私は母のゐる家が嫌ひで、学校から帰ると夜まで外で遊ぶけれども雨が降れば仕方がないので、さういふときは女中部屋へもぐりこむ。女中部屋は屋根裏で、寺の建築の屋根裏だから、どの部屋よりも広く陰気で、おまけに梁の一本が一間あまり切られたところがあり、これは坊主の学校のとき生徒の一人が首をくゝり、不吉を怖れてその部分だけ梁を切つたといふ因縁のものだ。尤もその切口もまつたく煤けて同じ色の黒さで、切つた年代の相違などといふものもすでに時間の底に遠く失はれてゐるのであつた。この屋根裏は迷路のやうに暗闇の奥へ曲りこんでをり、私は物陰にかくれるやうにひそんで、講談本を読み耽つてゐたのである。雪国で雪のふりつむ夜といふものは一切の音がない。知らない人は吹雪の激しさを思ふやうだが、ピュウ〳〵と悲鳴のやうに空の鳴る吹雪よりも、あらゆる音といふものが完全に絶え、音の真空状態といふものゝ底へ落ちた雪のふりつむ夜のむなしさは切ないものだ。あゝ、又、深雪だなと思ふ。そして、さう思ふ心が、それから何か当のない先の暗さ、はかなさ、むなしさ、そんなものをふと考へずにゐられなくなる。子供の心でも、さうだつた。私は「家」そのものが怖しかつた。〔・・・〕

別して少年の私は母の憎しみのために、その家を特別怖れ呪はねばならなかつた。 

中学校をどうしても休んで海の松林でひつくりかへつて空を眺めて暮さねばならなくなつてから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であつた。そして吹く風であり、風の音であつた。 


私は幼稚園のときから、もうふら〳〵と道をかへて、知らない街へさまよひこむやうな悲しさに憑かれてゐたが、学校を休み、松の下の茱萸の藪陰にねて空を見てゐる私は、虚しく、いつも切なかつた。 


私は今日も尚、何よりも海が好きだ。単調な砂浜が好きだ。海岸にねころんで海と空を見てゐると、私は一日ねころんでゐても、何か心がみたされてゐる。それは少年の頃否応なく心に植ゑつけられた私の心であり、ふるさとの情であつたから。〔・・・〕


私は「家」に怖れと憎しみを感じ、海と空と風の中にふるさとの愛を感じてゐた。それは然し、同時に同じ物の表と裏でもあり、私は憎み怖れる母に最もふるさとゝ愛を感じてをり、海と空と風の中にふるさとの母をよんでゐた。常に切なくよびもとめてゐた。だから怖れる家の中に、あの陰鬱な一かたまりの漂ふ気配の中に、私は又、私のやみがたい宿命の情熱を托しひそめてもゐたのであつた。私も亦、常に家を逃れながら、家の一匹の虫であつた。


私の家から一町ほど離れたところに吉田といふ母の実家の別邸があつた。こゝに私の従兄に当る男が住んでをり、女中頭の子供が白痴であつた。私よりも五ツぐらゐ年上であつたと思ふ。〔・・・〕


私は白痴のゴミタメを漁つて逃げ隠れてゐる姿を見かけたことがあつた。白痴の切なさは私自身の切なさだつた。私も、もしゴミタメをあさり、野に伏し縁の下にもぐりこんで生きてゐられる自信があるなら、家を出たい、青空の下へ脱出したいと思はぬ日はなかつた。私はそのころ中学生で、毎日学校を休んで、晴れた日は海の松林に、雨の日はパン屋の二階にひそんでゐたが、私の胸は悲しみにはりさけないのが不思議であり、罪と怖れと暗さだけで、すべての四囲がぬりこめられてゐるのであつた。青空の下へ自分一人の天地へ! 私は白痴の切なさを私自身の姿だと思つてゐた。私はこの白痴とは親しかつた。私は雨の日は別邸へ白痴を訪ねて四目置いて碁を教へてもらふことが度々あつたのである。 


ゴミタメを漁り野宿して犬のやうに逃げ隠れてどうしても家へ帰らなかつた白痴が、死の瞬間に霊となり荒々しく家へ戻つてきた。それは雷神の如くに荒々しい帰宅であつたが、然し彼は決して復讐はしてゐない。従兄の鼻をねぢあげ、横ッ腹を走るついでに蹴とばすだけの気まぐれの復讐すらもしてゐない。彼はたゞ荒々しく戸を蹴倒して這入つてきて、炉端の人々をすりぬけて、三畳のわが部屋へ飛びこんだだけだ。そしてそこで彼の魂魄は永遠の無へ帰したのである。 


この事実は私の胸に焼きついた。私が私の母に対する気持も亦さうであつた。私は学校を休み松林にねて悲しみに胸がはりさけ死ぬときがあり、私の魂は荒々しく戸を蹴倒して我家へ帰る時があつても、私も亦、母の鼻すら捩ぢあげはしないであらう。私はいつも空の奥、海のかなたに見えない母をよんでゐた。ふるさとの母をよんでゐた。 


そして私は今も尚よびつゞけてゐる。そして私は今も尚、家を怖れる。いつの日、いづこの戸を蹴倒して私は死なねばならないかと考へる。一つの石が考へるのである。

(坂口安吾「石の思ひ」初出:「光 LACLARTE 第二巻第一一号」1946(昭和21)年11月1日発行)



この二つはあくまで自伝的作品である。



作品というものは、私の場合、私の全的なもので、自伝的作品といっても、過去の事実の単純な追想や表現ではないのである。事実の復原をめざして書くなどということは、私のてんから好まざるところ、左様な意味のものならば、私は自伝などは書かぬ。


私が自伝を書くには、書くべき文学的な意味があり、私の思想や生き方と、私の過去との一つの対決が、そこに行われ、意志せられ、念願せられているという、それを理解していただきたい。 


その対決のあげくが、どう落付きどう展開することになるか、それを私自身が知らず、ただ、それを行うところから出発する、そういう手段だけが、私の小説の、私に於ける意味なのである。(坂口安吾「わが思想の息吹」初出:「文芸時代 第一巻第三号」1948(昭和23)年3月1日発行)



1935年の「をみな」は、35歳のときの矢田美津子との別離に苦しみ苛まれていた時のフィクションであり、1946年の「石の思ひ」は、母が死に、矢田美津子の死亡通知を受け取ったのちの敗戦直後の、1947年に梶三千代と出会う直前の、フィクションである。



◼️安吾年譜(七北数人)より抽出

1942 

(昭和17) 年 

36歳

2月16日、母アサが死去。

1944 

(昭和19) 年 

38歳

3月14日、矢田津世子病死の報を受ける。

1947 

(昭和22) 年 41歳

3月初め、梶三千代と新宿の酒場チトセで出逢い惹かれ合う。チトセは古い文学仲間の谷丹三が開いた店。谷は戦前、向島にあった料亭「千歳」の娘房子と結婚し、入り婿となっていた。房子と三千代はその当時からの知り合いで、安吾と引き合わせることになったもの。三千代は秘書の名目で毎週水曜日の出勤を約束するが、秘書としての仕事はほとんどなく、まもなく半同棲状態となる。 


4月頃、…三千代が盲腸炎から腹膜炎となって倒れ、武蔵新田の南雲医院で緊急手術することになる。…両社に了承を得る。以後1カ月余り、南雲医院でつきっきりで看病しながら、三千代をモデルにして「青鬼の褌を洗う女」を執筆する。

1949 

(昭和24) 年 43歳

1月上旬、京都ではほとんど執筆できずに帰京。その後は完全に蓄膿症の症状を呈し、全身に発疹が出たため、1日50錠ものアドルムをのんでひたすら眠ることに努める。25日頃から夢うつつの中で何度も狂気の発作を起こす。一糸纏わぬ全裸で往来へ飛び出したり、ストップウォッチを持って3分で酒を買って来いと命じたり、階段の上から家財道具を投げ落としたりするようになる。 


2月4日には2階の窓から飛び降りる。家政婦のシズ子と三千代が面倒をみていたが、どうにもならない時には高橋旦や郡山千冬、檀一雄、新潮社の菅原国隆、講談社の原田裕らに来てもらう。三千代を殺すと喚いて樫の杖をふるって追い回した時には、止めに入った同居人の裁判官大野璋五をも打ちすえようとした。ある日は、心中をするのだと言って三千代を引き連れて人力車で出かけたこともあった。 

2月半ば頃から、渡辺彰や前記の看護役の友人らが集まって相談、アドルムを飲むのを忘れさせようと交替で安吾と酒を飲みながら語りつづける作戦を決める。しかし、1日ぐらいアドルムを飲まないでいると禁断症状が出はじめ、母アサの命日である16日には「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」と、布団の衿をかみしめるようにして泣いていたと『クラクラ日記』に書かれている。


2月23日、東大病院神経科へ入院。


8月初め頃からアドルム中毒の発作が再発し、7日夕方から池上警察署に留置される。

1950

(昭和25) 年 44歳


3月頃、妻三千代の妊娠が判明するが、自分の子とは信じられず、この頃から再びアドルムを飲みはじめ暴れるようになる。尾崎士郎や三千代の妹嘉寿子らの仲介で気持ちを鎮めるが、三千代は出産する気がなくなり堕胎。

1951 

(昭和26) 年 

45歳

11月4日、多量のアドルムを服用したため半狂乱に陥り、檀宅へライスカレーを百人前注文させる。同月16日、極秘裡に向島の三千代の実家へ移る。以後3カ月半を三千代の娘の正子、母の松、妹の嘉寿子、弟の達介たちと過ごすことになる。

1953 

(昭和28) 年 47歳


6月末か7月初め頃、東京でアドルムを服用、帰宅後暴れだす。三千代が南川潤宅へ避難したことに怒り、ゴルフクラブを持って南川宅へ殴り込みに行く。この事件を機に2人は絶交。


7月20日、第29回芥川賞選考会に出席。同月下旬に中部日本新聞社の招待により尾崎士郎、檀一雄とともに名古屋・岐阜を旅行する予定だったが、大雨で長良川増水のため延期となる。代わりに25日から8月5日頃まで、「決戦川中島」の企画で檀一雄と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留中、檀の留守中に荒れだし、ついには留置場に入れられる。 


8月6日、長男綱男誕生。そのしらせを留置場から出てすぐに聞かされる。同月10日すぎに帰宅。20日、カフェ・パリスで乱暴行為に及び桐生署の留置場へ入れられる。

1955 

(昭和30) 年


2月11日から高知へ取材旅行。15日に飛行機で東京に着く。桐生行きの電車が出るまで浅草の染太郎にいて、三千代とまだ1歳半の綱男と電話で話し、最終電車で帰宅。高知産のサンゴのネックレスとペンダントを三千代の誕生祝いにプレゼントする。その箱の裏に「土佐ニ日本産サンゴあり 土佐の地に行きてもとめ 三千代の誕生日におくる 一九五五 安吾」と揮毫したのが事実上の絶筆となる。発表作品としての絶筆には没後発表となったものが当てはまり、「安吾新日本風土記」「砂をかむ」「豊島さんのこと」「育児」「世に出るまで」「真書太閤記」がそれぞれ「絶筆」と称される。 


2月17日早朝7時55分、桐生の自宅で脳出血により急逝。享年48(数え年では50歳)。




坂口三千代との生活を送った晩年の八年のあいだの「母をめぐるフィクション」も読んでみたかった。ーーという言い方をしてもよいが、不遜な言い方をすれば、最晩年の安吾がどんな母の話を書いたかは、なんとなくわかってしまっているという「錯覚」に閉じ籠りうる気分のときもある。



彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。〔・・・〕


彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。〔・・・〕

睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた。〔・・・〕


十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。


「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」


そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代「クラクラ日記」1967年)