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2022年1月11日火曜日

ニーチェによるカントの無関心[Ohne Interesse]批判

 

すべての関心は、美的判断を台無にし偏りを生む[Alles Interesse verdirbt das Geschmacksurteil und nimmt ihm seine Unparteilichkeit](カント『判断力批判』第13節)

美は、無関心に何ものかを、自然でさえをも、愛するように我々に促す。崇高は我々の(感覚の)関心に反してさえ、それを敬うように促す。

Das Schöne bereitet uns vor, etwas, selbst die Natur, ohne Interesse zu lieben; das Erhabene, es, selbst wider unser (sinnliches) Interesse, hochzuschätzen.  (カント『判断力批判』第29節)



………………


「美とは無関心に人の気に入る何ものかである」とカントは言った[»Schön ist«, hat Kant gesagt, »was ohne Interesse gefällt.«   ]。無関心![Ohne Interesse! ]。


この定義を、本当の「鑑賞者」であり芸術家である人がなした定義と比較して頂きたい。つまりスタンダールは、美は幸福を約束するものと呼んだのである[Schöne einmal une promesse de bonheur nennt. ]。


ここではいずれにせよ、カントが美的状態において浮き彫りにしたことがまさに拒絶され、消し去られているのである。それは無関心[le désintéressenment]である。果たしてカントが正しいのかスタンダールか。もっとも我らの美学者諸氏がカントを贔屓目にこんな事を量りに掛けてみたらどうだろう。美という魔法が掛けられて、いやそれどころか一糸纏わぬ女性の銅像を「無関心に(ohne Interesse)」に観ることができるかどうかということである。おそらく彼らの無駄な努力に人はいささか笑いを禁じ得ないだろう。芸術家の諸々の経験はこのデリケートな点に関して「より関心を引く」ものであり、またピグマリオンが「審美的でない(unästhetisch)人間」であったというのはいずれにせよ当を得ていないのである。(ニーチェ『道徳の系譜』第3論文第6節)



ハイデガーは上のニーチェを引用しつつ、次のように言っている。


ショーペンハウアーはカントを根本的に誤読した。カントの美学の誤読の起源[Entstehung dieses Mißverständnisses der Kantischen Ästhetik]は彼にある。そしてニーチェはこの誤読に完全に従ってしまった。〔・・・〕


何ものかに関心を抱くとは、それを自分で所有し、使用し、支配するために、自身のものにしたいと意志することである[Ein Interesse nehmen an etwas, das besagt: dieses Etwas für sich haben wollen, nämlich zum Besitz, zur Verwendung und Verfügung;  ]〔・・・〕


何よりもまずカントが言ったことは、美しいという我々の判断は、関心によって決定づけられた判断であってはならないということである[was das Schöne als solches sei, sagt er zunächst abwehrend, was als der Bestimmungsgrund niemals sich vordrängen kann und darf, nämlich nicht ein Interesse ](ハイデガー『ニーチェ』)




ここでラカンを導入する。


美は、欲望の宙吊り・低減・武装解除の効果を持っている。美の顕現は、欲望を威嚇し中断する[…que le beau a pour effet de suspendre, d'abaisser, de désarmer, dirai-je, le désir : le beau, pour autant qu'il se manifeste, intimide, interdit le désir.](Lacan , S7, 18  Mai  1960 )


ラカンにおいて欲望は大他者ーーコミュニケーションの大他者ーーにかかわり、関心の領域にある。


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](ラカン, E853, 1964年)


だが、この欲望の大他者はお釈迦になった。


我々は信じていた、大他者はパロールの大他者、欲望の大他者だと。だがラカンはこの大他者をお釈迦にした[On a pu croire que l'Autre, c'était l'Autre de la parole, l'Autre du désir et Lacan a construit son grave sur cet Autre]〔・・・〕


はっきりしているのは、我々が「大他者は身体だ」と認めるとき、まったく異なった枠組みで仕事せねばならないことだ。この身体としての大他者は欲望の審級にはない。享楽自体の審級にある[Évidement, on opère dans un tout autre cadre quand on admet que l'Autre, c'est le corps, qui n'est pas ordonné au désir mais qu'il est ordonné à sa propre jouissance. ](J.-A. MILLER, - L'Être et l'Un - 25/05/2011)


ーー《大他者は身体である![L'Autre c'est le corps! ]》(Lacan, S14, 10 Mai 1967)


身体の大他者、享楽の大他者はモノである。


モノはフロイトの思考においてきわめて本質的な何ものかである。『心理学草案』で使われた用語に置いては、モノは排除された内部はまた内部において排除されたものである。ce das Ding[…] est quelque chose de tout à fait essentiel …quant à la pensée freudienne.   Cet intérieur exclu qui, pour reprendre les termes mêmes de l'Entwurf, est ainsi exclu à l'intérieur, (Lacan, S7, 20  Janvier  1960)



そしてこのフロイトのモノ概念を使ってラカンは次のように言っている。


美は、最後の防壁を構成する機能をもっている、最後のモノ、死に至るモノへの接近の前にある。この場に、死の欲動用語の下でのフロイトの思考が最後の入場をする。〔・・・〕この美の相、それはプラトン(『饗宴』)がわれわれに告げた愛についての真の意味である。


« la beauté » …a pour fonction de constituer le dernier barrage avant cet accès à la Chose dernière, à la Chose mortelle,  à ce point où est venue faire son dernier aveu  la méditation freudienne sous le terme de la pulsion de mort. […]la dimension de la beauté, et c'est cela qui donne son véritable sens à ce que PLATON  va nous dire de l'amour. (Lacan, S8, 23  Novembre 1960)


このモノ、ーー《モノは享楽の名である[das Ding est tout de même un nom de la jouissance]》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse , 10 juin 2009)ーー、享楽の名としてのモノは自閉的孤独の領野にある。


享楽は自閉的である、それは両性にとってである。主体の根源的パートナーは孤独である。La jouissance est autistique, tant du coté féminin que masculin. Le partenaire fondamental du sujet reste donc la solitude. (Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR ,2016)

享楽の核は自閉的である。Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin「享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance」2011)

自閉的享楽としての自己身体の享楽 [jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. ](J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN, 2000)


ここに「欲望の関心」ではない「享楽の無関心」がある。真の美はここにしかない。美は死の欲動に対する最後の防衛であり[参照]、そこに崇高がある。



崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている[Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust] (カント『判断力批判』27章)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)



ニーチェはこんなことはわかっていた筈である。ニーチェの力への意志こそ、享楽の意志(悦の意志)なのだから[参照]。


不幸にもショーペンハウアーの誤読を経由しただけでカントの『判断力批判』などまともに読んでいないことが明らかなニーチェによる「カントの無関心批判」をマガオでとってはまったくダメである。


さらに言えば、最近ニーチェによるカントの無関心批判をこの21世紀になってもいまだマガオで利用して安吾論を書いている作家がいるらしいがーーしかもなんとニーチェの主著を翻訳しているらしい!ーー、一瞬たりともこの人物の安吾批評をマガオで受け取ってはダメである。あれはーーシツレイながらニーチェに倣って読まずに言わせてもらうがーー、安吾の崇高への愛を微塵もわかっていないキャベツかカボチャに過ぎないと憶測しうる。



通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭[Allerwelts-Philosophen, den Moralisten und andren Hohltöpfen, Kohlköpfen…]〔・・・〕


完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども[Die vollkommen lasterhaften ”Geister”, die ”schönen Seelen”, die in Grund und Boden Verlognen] (ニーチェ『この人を見よ』)


………………



ところでフロイトのモノは異者と等価である。


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)




異者としてのモノは不快、つまり先ほど示したように、崇高だということになる。ーー《崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている[Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust] 》(カント『判断力批判』27章)


とすれば、女性器は崇高なのだろうか。


異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches.] (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


この文を書いて派生的にあらたな「真の問い」が生まれた。女性器と崇高である。熟慮せねばならない・・・


とはいえあの裂け目は、カントの崇高の定義通りに深淵への入り口であるのは間違いない。

崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。

Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章)

『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé  « la tête de MÉDUSE », ]、あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti,   ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955)


女性器は崇高であるーーここでは当面、そう宣言しておこう。とはいえ問いは、なぜ崇高を感じさせない女性器があるかである・・・



正午の深淵を感じさせないまがいの泉があるのである。


おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか?


- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」1885年)


いやむしろ私の問題かも知れぬ、見詰め方が足りないのかも知れぬ。


おまえが長く深淵を見詰めるならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 [wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein](ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)