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2023年10月2日月曜日

ラカンは本物か贋物かよくわからん


 私は長いあいだラカンにかかわったけれど、ーーとくに2014年前後からかな、それまでは最初のセミネールⅠしか読んだことがなかったから(それ以前は間違いだらけのジジェク程度だった)ーー、日本のラカン研究者はラカンのいくつかの大きな誤りをはっきりさせたほうがいいんじゃないかね。

とくに次の誤りだね、もっともまずいのは(1973年、72歳になってようやく訂正はしたが、巷間ではほとんどまったく認知されていない)。


無意識は言語のように構造化されている[L'inconscient est structuré comme un langage ](Lacan, S11, 22  Janvier  1964)



木村敏・中井久夫・市川浩・柄谷行人が、1988年のことだが、ラカンを徹底的にバカにしてるね。



中井 ぼくはラカンじゃないから何とも言えないけど、大体ラカンというのはよくわからんですよ。あれは本物か贋物かよくわからんので、誰か教えていただきたいんですが、たとえば無意識というのは言語的に構造化されていると言うでしょう。どうなんですかね。


木村 「言語のように」というか。


中井 「ように」なんですか。


木村 コムを使っていますね。とにかく「として」、あるいは「ように」でしょうね。どう訳すのかの問題ね。


中井 「言語のように組織されている」と言うと、これ全然違うから。


木村 「言語として」と訳すか......。


中井 うーーん。ラカンさん、その辺、はなはだ不透明なんですよね。


木村 ラカンというのは非常に不透明ですよ。だからそれをラカニアンの人達が、バイブルにするものだから(笑)。


中井 でもあれは、全員を破門して一人で死んでいくわけで。


柄谷 あれはフランス的現象ですよ、明らかに。なぜみんながラカンについて語るのかわからなくて、いろいろ聞いても、みんなが語るからとか......。


木村 日本もそうですよ。


中井 ラカンは単に回しているだけじゃないかと。


市川 日本人はあんなもの信じてないとおもうけど(笑)。


木村 いや、信じている人達が何人かいて......。


中井  ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないかとおもったんですけどね。


(木村敏・中井久夫・市川浩・柄谷行人「〈分裂症〉をめぐって」1988年ーー柄谷行人編著『シンポジウム 』所収、 1989年)



で、中井久夫は1996年に次のように言うようになる。


ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


ラカンのセミネールに出席していたラカンの弟子筋にあたるアンドレ・グリーンAndré Greenのラカン批判は次の通り。


ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言っている…しかしあなたがたがフロイトを読めば、明らかにこの主張は全く機能しないのが分かる。フロイトははっきりと前意識と無意識を対立させている(フロイトの言う無意識とはモノ表象によって構成されているのであって、それ以外の何ものによっても構成されていない)。言語に関わるものは、前意識にのみ属しうる。

Lacan is saying that the unconscious is structured like a language...when you read Freud, it is obvious that this proposition doesn't work for a minute. Freud very clearly opposes the unconscious (which he says is constituted by thing-presentations and nothing else) to the pre-conscious. What is related to language can only belong to the pre-conscious"(André GreenーーQuoted in Mary Jacobus, The Poetics of Psychoanalysis 、2005)


結局、フロイト観点からは、無意識は言語のように構造化されていないのであり、言語のように構造化されているのは前意識のみである。より詳しくは➡︎参照:原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper]



重要なのは、ラカンの《無意識は言語のように構造化されている》は「ラカンの夢」だったことだ、《精神分析を、構造主義的言語学だけでなく、数学、特に数学的論理に結びつけようとした欲望》(J.-A. Miller, Habeas corpus, 2016)をもった時代の。でもこれは明らかな誤謬だ。少なくともフロイトにおいての無意識は「言語の無意識」以外に「身体の無意識」ーーエスの身体的要求という本来の無意識ーーがある。で、言語の無意識とは実際は前意識であり、「前意識は言語のように構造化されている」が正しい。


そして前意識は欲望のレベルにあり、本来の無意識としての欲動(享楽)のレベルにはない。ーー《無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient]》(Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)。前期ラカンにおいて、欲望と欲動のあいだ自体、混同した記述がある[参照]。


こういった誤りはあったにしろ、ラカンがいなかったらフロイトはまともに読み込まれていなかっただろうね。ひょっとしたら、少なくともその核心部分ーー現代主流ラカン派が抽出している核心は、欲動の固着(リビドーの固着)ーーはほとんど忘れられていたかも。



ラカンは最も偉大なフロイディアンだった [Lacan a été le plus grand des freudiens](ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)


ーーだよ、まがいようもなく。