このブログを検索

2024年8月7日水曜日

どうだい、そこの女性に優しいキミ?

 


折に触れて引用される三島由紀夫と萩原朔太郎の文を貼り付けた6年前の投稿だが、このNeroさんの簡潔明瞭なコメントは実に「正しい」ね。


女嫌いとは何だろうか? 「自分の嫌うところは」と、定評あるストリンドベルヒが正直に答えて居る。「女の気質や性格であって、肉体に属するものではない。」と。同様にショーペンハウエルが、彼の哲学で罵倒しながら、彼の膝の上で若い女を愛撫して居た。すべての女嫌いについて、定義し得るところはこうである。人格としてでなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人に対して、これほど憎悪の感情をむき出しにした、冒涜の思想があるだろうか。)


しかしながら一方では、それほど観念的でないところの、多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等は、決してどんな場合に於ても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。


然る一方で、何故に或る人たちが、常に女性を目の敵にして、毒舌や侮辱をあえてするのだろうか。(それによって彼等は、女嫌いと呼ばれるのである。)けだしその種の人々は、初めから女に対して、単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。女がもし、単なる肉であるとすれば、もとより要求するところもなく、不満するところもないだろう。彼等もまた世間多数の男と同じく、無邪気に脂肪の美を讃美し、多分にもれない女好きであるだろう。それ故に女嫌いとは? 或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。然り! すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(萩原朔太郎『虚妄の正義』)



とはいえ問いは、女性を見下していなくて女性に優しい男はいるかだな。どうだい、そこの女性に優しいキミ?


マザコンだったらどうなんだろう?


大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏ーー「古井由吉氏を囲んで 座談会 古井由吉文学の神髄」)



フロイトはマザコンについて次のように言っているがね、


男児は、性行為の醜い規範から両親を例外として要求する疑いを抱き続けることができなくなったとき、彼は皮肉な正しさで、母親と売春婦の違いはそれほど大きくなく、基本的には母親がそうなのだと自分に言い聞かせるようになる。……娼婦愛…娼婦のような女を愛する条件はマザーコンプレクスに由来するのである。

Er vergißt es der Mutter nicht und betrachtet es im Lichte einer Untreue, daß sie die Gunst des sexuellen Verkehres nicht ihm, sondern dem Vater geschenkt hat. (…) 

Dirnenliebe…die Bedingung (Liebesbedingung) der Dirnenhaftigkeit der Geliebten sich direkt aus dem Mutterkomplex ableitet. (フロイト『男性における対象選択のある特殊な型について』1910年、摘要)


あるいはーー、

男はほとんど常に、女性への敬愛を通しての性行動に制限を受けていると感じる。そして貶められた性的対象に対してのみ十全なポテンツを発揮する[fast immer fühlt sich der Mann in seiner sexuellen Betätigung durch den Respekt vor dem Weibe beengt und entwickelt seine volle Potenz erst, wenn er ein erniedrigtes Sexualobjekt vor sich hat, ](フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第2章、1912年)

心的インポテンツ[psychische Impotenz]は考えられている以上にはるかに広く存在し、この作用が実際に文明化された人間の愛の生をある程度特徴づけている。

心的インポテンツの概念を拡大し性交の失敗に限定しないなら、すべての男性をここに加えうるかもしれない。つまり、行為には失敗しないが、行為から特定の快感を得ずに行う男性、この状態は人が考えるより一般的である。(フロイト『性愛生活がだれからも貶められることについて』第2章、1912年)


次の《愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない「Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben]》というのは決定的かもしれないよ、


心的インポテンツ[psychischer Impotenz]に関する精神分析的研究は、すでに何人かの作家によって行われ、発表されている。〔・・・〕

その最も普遍的な内容は決して克服されることなく、この病因的素材の中で重要な役割を果たすが、それは母や姉妹に対する近親相姦的な固着[inzestuöse Fixierung an Mutter und Schwester]である。〔・・・〕

この種の男は、愛する場では欲望しない。欲望する場では愛しえない「Wo sie lieben, begehren sie nicht, und wo sie begehren, können sie nicht lieben]

彼らは、愛する対象から官能を遠ざけるために、愛する必要のない対象を求める。そして近親相姦を避けるために選ばれた対象が、避けるべき対象を思わせるしばしば目立たない特徴を持つとき、「感受性コンプレクス」と「抑圧されたものの回帰」の法則に従って、心的的インポテンツの特異な失敗が起こるのである。

Sie suchen nach Objekten, die sie nicht zu lieben brauchen, um ihre Sinnlichkeit von ihren geliebten Objekten fernzuhalten, und das sonderbare Versagen der psychischen Impotenz tritt nach den Gesetzen der »Komplexempfindlichkeit« und der »Rückkehr des Verdrängten« dann auf; wenn an dem zur Vermeidung des Inzests gewählten Objekt ein oft unscheinbarer Zug an das zu vermeidende Objekt erinnert. (フロイト『性愛生活が誰からも貶められることについて』第1章、1912年)



ラカン派的にはこれが男女の愛の裂け目の真の定式だ。

フロイトの目くらめく形式化がある、《男たちは愛する場では欲望しない。そして欲望する場では愛しえない》。われわれは言うことができる、これが愛の裂け目の真の定式だと[cette formulation fulgurante de Freud : « Là où ils aiment, ils ne désirent pas, et là où ils désirent, ils ne peuvent aimer. » On peut dire que c'est là vraiment qu'est donné la formule du clivage de l'amour]   (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 22 MARS 1989 )




ところで、ジャコメッティは生涯、ひどいマザコンだったようだがね、





ジャコメッティは若き時代、毎夜眠りにつく前に、自分が二人の男を殺し、二人の女をレイプして殺害することを想像した。(James Lord、Giacometti portraitより)





娼婦とは最もまっとうな女たちだ。彼女たちはすぐに勘定を差し出す。他の女たちはしがみつき、けっして君を手放そうとしない。人がインポテンツの問題を抱えて生きているとき、娼婦は理想的である。君は支払ったらいいだけだ。巧くいかないか否かは重要でない。彼女は気にしない。(James Lord、Giacometti portraitより)





…………………


話を戻せば、最も重要なのは、母は男女両性にとって原愛の対象でありながら、原誘惑者かつ原支配者だということだ。

母という人物は、子供を滋養するだけではなく世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子供に引き起こす。身体を世話することにより、母は、子供にとって「原誘惑者」になる。

Person der Mutter, die nicht nur nährt, sondern auch pflegt und so manche andere, lustvolle wie unlustige, Körperempfindungen beim Kind hervorruft. In der Körperpflege wird sie zur ersten Verführerin des Kindes. 


この二者関係には、独自の、比較を絶する、変わりようもなく確立された母の重要性の根が横たわっている。全人生のあいだ、最初の最も強い愛の対象として、後のすべての愛の関係性の原型としての母であり、それは男女どちらの性にとってもである。[In diesen beiden Relationen wurzelt die einzigartige, unvergleichliche, fürs ganze Leben unabänderlich festgelegte Bedeu-tung der Mutter als erstes und stärkstes Liebesobjekt, als Vorbild aller späteren Liebesbeziehungen ― bei beiden Geschlechtern. ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


したがって《愛憎コンプレクス[ Liebe-Haß-Komplex]》(Freud, 1909)が母に対してある。その後継者である女たちに対しても。

全能の構造は、母のなかにある、つまり原大他者のなかに。…それは、あらゆる力をもった大他者である[la structure de l'omnipotence, …est dans la mère, c'est-à-dire dans l'Autre primitif…  c'est l'Autre qui est tout-puissant](Lacan, S4, 06 Février 1957)

母の影は女の上に落ちている[l'ombre de la mère tombe là sur la femme.]〔・・・〕

全能の力、われわれはその起源を父の側に探し求めてはならない。それは母の側にある[La toute-puissance, il ne faut pas en chercher l'origine du côté du père, mais du côté de la mère](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)


全能の女は嫌われる、男たちだけでなく女たちからも。

女たちは、その個人的うぬぼれの背後に、常に非個人的侮蔑を抱いている、ーー「女なるもの」に対して。Die Weiber selber haben im Hintergrunde aller persönlichen Eitelkeit immer noch ihre unpersönliche Verachtung – für »das Weib«. –(ニーチェ『善悪の彼岸』86番、1886年)


ーー《自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう![Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! ]》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」1883年)


このニーチェからも「女嫌い」こそ、真の愛の求道者だということになるな。


ここでふたたび古井由吉からも引用しておこう。

でも、好きと嫌いは紙一重ですよ。人は嫌いというところがなければ、好きになりません。この女とだけは寝たくない、という場合に限って、むずかしい関係になるものです。(古井由吉『人生の色気』2009年) 



……………


※附記

定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女たちを愛することである。それは最も明瞭なことである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair]. (Lacan, L'étourdit, AE.467, le 14 juillet 72)

他の性 (大他者の性[Autre sexs])は、両性にとって女性の性である。男たちにとっても女たちにとっても女性の性である[the Other sex as such, for both sexes, is the female sex. It is the Other sex both for men and women. ](J.-A. MILLER, The Axiom of the Fantasm, 2009)


男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く[Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.](フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


男性の愛の特徴の女たちへの愛はよいとして、女性の愛の特徴は自己愛つまりナルシシズムだというのがフロイトだ。

われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。

Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.〔・・・〕

もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る。

Die Bedingungen der Objektwahl des Weibes sind häufig genug durch soziale Verhältnisse unkenntlich gemacht. Wo sie sich frei zeigen darf, erfolgt sie oft nach dem narzißtischen Ideal des Mannes, der zu werden das Mädchen gewünscht hatte. Ist das Mädchen in der Vaterbindung, also im Ödipuskomplex, verblieben, so wählt es nach dem Vatertypus. (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


ファザコン自体、父に愛される自己を愛している、と言いうる。

では男性の同性愛はどうか?

男性の同性愛において見られる数多くの痕跡がある。何よりもまず、母への深く永遠な関係である。Il y a un certain nombre de traits qu'on peut voir chez l'homosexuel.   On l'a dit d'abord :  un rapport profond et perpétuel à la mère. (Lacan, S5, 29 Janvier 1958)

男性の同性愛者の女への愛は、昔から知られている。われわれは名高い名、ワイルド、ヴェルレーヌ、アラゴン、ジイドを挙げることができる。彼らの欲望は女へは向かわなかったとしても、彼らの愛は「ひとりの女 Une femme 」に落ちた。すくなくとも時に。

L'amour de l'homosexuel pour les femmes est de longtemps connu, nous pourrions en citer plusieurs de célèbres : Wilde, Verlaine, Aragon ou Gide, si leur désir était peu orienté vers les femmes, leur amour s'est porté sur Une femme, au moins un temps.

男性の同性愛者は、その人生において少なくともひとりの女をもっている。フロイトが厳密に叙述したように、彼の母である。L'homosexuel a au moins une femme dans sa vie, Freud l'a précisément décrit, c'est sa mère. 〔・・・〕

私は「すべてにとって」そうであると言うつもりはない。同性愛者の多様性は数限りない。それにもかかわらず、エディプスの時代から、ラカンがセミネール「無意識の形成」にて典型的なものとして展開した男性の同性愛者のモデルは、「母への深く永遠な関係」という原理を基盤としている。

Je n'en fais pas ici un « pour tous », la variété des homosexualités étant innombrable. Il n'empêche que du temps de l'Œdipe pas encore si éloigné, le modèle de l'homosexualité masculine exemplairement déplié par Lacan dans le Séminaire Les formations de l'inconscient est basé sur le principe du « rapport profond et perpétuel à la mère »( Jean-Pierre Deffieux, Pour vivre heureux vivons mariés ーーLe Journal extime de Jacques-Alain Miller, 2013、PDF


以上、異性愛に限らず「愛とは女を愛すること」となるな。少なくともフロイトラカン的精神分析においては。