このブログを検索

2024年8月8日木曜日

地獄への固着の反復


 今まで繰り返してきたことだが、ワケアリでここにふたたびまとめる。

…………

人が反復する夢をもっているなら、トラウマを抱えていることを意味する。


夢は反復的夢となる時その地位を変える。夢が反復的なら夢はトラウマを含意する[le rêve change de statut quand il s'agit d'un rêve répétitif. Quand le rêve est répétitif on implique un trauma. ](J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011)


逆にーー夢だけではなくーー何ものかを無意識的に反復しているならそれはトラウマに関わると言いうる。



反復的夢の典型は事故による外傷神経症だ。例えば外傷性戦争神経症ーー、

私の子ども時代といえば、明治生まれはまだ若くて、元治だとか嘉永だとか万延生まれの人がおられました。この時代、日露戦争の勇士は戦争体験を語らないと言われていました。一般に明治人は寡黙であり、これは明治人の人徳であると思われてしました。けれども、今から考えるとそうではなくて、日露戦争は、最後は白兵線つまり銃剣で戦われたわけです。それはほとんど語りえないものであったのではないだろうかと思うのです。


その一つの傍証を挙げましょう。精神科の大先輩の話ですが、軍医として太平洋戦争に参加している人です。一九七七年にジャワで会った時には、戦争初期のジャワでの暮らしが、いかに牧歌的であったかという話を聞かせてくれました。先生はその後ビルマに行かれたのですが、そちらに話を向けても「あっ、ビルマ。ありゃあ地獄だよ」と言ってそれでおしまいでした。

ところが一九九五年の阪神淡路大地震のあとお会いした時には、「実は、今でもイギリスの戦闘機に追いかけられる夢を毎晩見るんだ」ということを言われました。震災について講演に行くと、最前列に座っているのが白髪の精神科の長老たちで、これまであまり側に寄れなかったような人たちですが、講演がすんだら握手を求めに来て「戦争と一緒だねえ」というようなことを言われるわけですね。神戸の震災によって外傷的な体験というものが言葉で語ってもいいという市民権を得たのだなと思いました。それまでずっと黙っておられたのですね。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


この中井久夫が記している「ビルマの地獄の反復」は、フロイトの次の記述に相当する。

外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. 


これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)


固着とは文字通り、トラウマ的出来事に「固く着いて」離れないことであり、反復をもたらすトラウマは事実上、固着と等価である。




ところで、フロイトはトラウマーートラウマへの無意識的固着[unbewußte Fixierung an ein Trauma]あるいはトラウマ的固着[traumatischen Fixierung」ーーを事故による外傷神経症だけでなく幼児期の出来事に結びつけている。

トラウマへの無意識的固着は、夢の機能の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着の圧力上昇を現勢化させ、夢の作業の機能における失敗を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡を願望実現へと移行させるものだが。こういった環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを。


die unbewußte Fixierung an ein Trauma scheint unter diesen Verhinderungen der Traumfunktion obenan zu stehen. Während der Schläfer träumen muß, weil der nächtliche Nachlaß der Verdrängung den Auftrieb der traumatischen Fixierung aktiv werden läßt, versagt die Leistung seiner Traumarbeit, die die Erinnerungsspuren der traumatischen Begebenheit in eine Wunscherfüllung umwandeln möchte. Unter diesen Verhältnissen ereignet es sich, daß man schlaflos wird, aus Angst vor dem Mißglücken der Traumfunktion auf den Schlaf verzichtet. Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen  (フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)


この幼児期のトラウマは、中井久夫の次の文に相当する。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


《語りとしての自己史に統合されない「異物」》とはフロイトの次の文の巧みな言い換えである。

[自我に]同化不能の異物[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)


私は、フロイト邦訳では「異物」Fremdkörperと訳されてきた語を身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好んできた、ラカンに準拠しつつーー《われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger]》(Lacan, S23, 11 Mai 1976)。あるいはFremdkörperの語源であるラテン語のエイリアンの身体[corpus alienum]を想起しつつ。


この異物=異者としての身体[Fremdkörper]がまさにトラウマであり、レミニサンス[Reminiszenz]を引き起こすものである。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕


これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


さらにこのトラウマとしての異者身体ーー《自我の異郷部分[ ichfremde Stück]》ーーのレミニサンスをフロイトは《エスの欲動蠢動[Triebregung des Es]》とも言っている。

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen 

〔・・・〕この異者としての身体は内界にある自我の異郷部分である[Triebregung des Es …ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen …das ichfremde Stück der Innenwelt ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)


このエスの欲動蠢動が固着ーーあるいは先に示した「トラウマ的固着」 traumatischen Fixierungーーを通した「無意識のエスの反復強迫」Wiederholungszwang des unbewußten Esである。

欲動蠢動は「自動反復」の影響の下に起こるーー私はこれを反復強迫と呼ぶのを好むーー。そして抑圧において固着する契機は「無意識のエスの反復強迫」である。

Triebregung  … vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –… Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)





ところでラカンはセミネールⅩⅠで次のトーラス円図を示しつつ中心の「不快」Unlustのポジションに異者としての身体[corps étranger]を置いている。




不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として識別される[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)


このラカンは『文化の中の居心地の悪さ』の次のフロイト文の言い換えである。

感覚総体からの自我の分離[Loslösung des Ichs ]――すなわち「非自我」Draußen や外界の承認――をさらに促進するのは、絶対の支配権を持つ快原理が除去し回避するよう命じている、頻繁で、多様で、不可避な、苦痛感と不快感[Schmerz- und Unlustempfindungen]である。こうして自我の中に、このような不快の源泉となりうるものはすべて自我から隔離し、自我のそとに放り出し、自我の異者[fremdes]で自我を脅かす非自我と対立する純粋快自我[reines Lust-Ich]を形成しようとする傾向が生まれる。

Einen weiteren Antrieb zur Loslösung des Ichs von der Empfindungsmasse, also zur Anerkennung eines »Draußen«, einer Außenwelt, geben die häufigen, vielfältigen, unvermeidlichen Schmerz- und Unlustempfindungen, die das unumschränkt herrschende Lustprinzip aufheben und vermeiden heißt. Es entsteht die Tendenz, alles, was Quelle solcher Unlust werden kann, vom Ich abzusondern, es nach außen zu werfen, ein reines Lust-Ich zu bilden, dem ein fremdes, drohendes Draußen gegenübersteht.(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第1章、1930年)


この不快な自我の異者が、ラカンの享楽にほかならない。

不快は享楽以外の何ものでもない[déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


つまり享楽と欲動は等価であり、欲動とは「欲動の身体」であり、フロイトはこれを「異者としての身体」と呼んだのである。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快な性質をもった身体的感覚[daß Körpersensationen unlustiger Art](フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

エスの要求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章1939年)



なお先のトーラス円図が示された前年のセミネールⅩにて、ラカンは「異者としての身体」を対象aかつ「固着点」としている。

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)


ラカンの現実界のトラウマとはこの固着の異者であり、レミニサンスするものなのである。

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)


ーー繰り返せば、《同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ]》(フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)であり、ラカンは上の二文で、フロイト同様、トラウマ=異者身体=固着としているのである。


そして現実界のトラウマは、この同化不能な「固着の異者身体」の反復つまりレミニサンスにほかならない。

フロイトの反復は、同化不能の現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)


そしてこの現実界のトラウマはもちろん享楽と等価である、《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel]》 (Lacan, S23, 10 Février 1976)



さてここで「異物=異者としての身体」に関わる主要表現を抜き出しておこう。




………………


最後に、ーーおそらく一般には思いがけないだろうーー中井久夫の喜ばしいトラウマの反復の指摘を掲げてく。


PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年『アリアドネからの糸』所収)


ここで「不変の刻印」とあるのが、次の『モーセと一神教』における《不変の個性刻印[unwandelbare Charakterzüge]》としてのトラウマへの固着である。


トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]。


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen]。 (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


トラウマが身体の出来事と定義されれば、当然、喜ばしきトラウマの反復もありうる。


………………


なおここに記したレミニサンスあるいは反復(回帰)ーー《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)ーーは小説や詩にも現れている。


次のプルーストは喜ばしき異者のレミニサンスである。

私の現時の思考とあまりにも不調和な何かの印象に打たれたような気がして、はじめ私は不快を感じたが、ついに涙を催すまでにこみあげた感動とともに、その印象がどんなに現時の思考に一致しているかを認めるにいたった。(…)最初の瞬間、私は腹立たしくなって、誰だ、ひょっこりやってきておれの気分をそこねた見知らぬやつ(異者 étranger)は、と自問したのだった。その異者は、私自身だった、かつての幼年の私だった。

je me sentis désagréablement frappé comme par quelque impression trop en désaccord avec mes pensées actuelles, jusqu'au moment où, avec une émotion qui alla jusqu'à me faire pleurer, je reconnus combien cette impression était d'accord avec elles.[…] Je m'étais au premier instant demandé avec colère quel était l'étranger qui venait me faire mal, et l'étranger c'était moi-même, c'était l'enfant que j'étais alors, (プルースト「見出された時」)


次のニーチェは異郷にさすらっていたおのれの回帰である。

偶然の事柄がわたしに起こるという時は過ぎた。いまなおわたしに起こりうることは、すでにわたし自身の所有でなくて何であろう。Die Zeit ist abgeflossen, wo mir noch Zufälle begegnen durften; und was _könnte_ jetzt noch zu mir fallen, was nicht schon mein Eigen wäre!  


つまりは、ただ回帰するだけなのだ、ついに家にもどってくるだけなのだ、ーーわたし自身の「おのれ」が。ながらく異郷にあって、あらゆる偶然事のなかにまぎれこみ、散乱していたわたし自身の「おのれ」が、家にもどってくるだけなのだ。Es kehrt nur zurück, es kommt mir endlich heim - mein eigen Selbst, und was von ihm lange in der Fremde war und zerstreut unter alle Dinge und Zufälle.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第3部「さすらいびと Der Wanderer」1884年)


……………

実は次の文を引用しようと思っていったん思い止まったのだが、ナゼカやはり「厳密な」エアリスポンスしたくなった。先のトラウマへの固着という不変の個性刻印の文に引き続いて、フロイトは次のように記している。



幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存させてくれ、世話をし支えてくれる女を求め続ける。So kann ein Mann, der seine Kindheit in übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung verbracht hat, sein ganzes Leben über nach einer Frau suchen, von der er sich abhängig machen kann, von der er sich nähren und erhalten läßt. 


初期幼児期に「性的誘惑の対象」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活へと導く。Ein Mädchen, das in früher Kindheit Objekt einer sexuellen Verführung wurde, kann ihr späteres Sexualleben dar-auf einrichten, immer wieder solche Angriffe zu provozieren. (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


さらにこれに引き続いてナゼカこう引用するのである。

佐枝は逃げようとする岩崎の首をからめ取りながら、おのずとからみつく男の脚から腰を左右に、ほとんど死に物狂いに逃がし、ときおり絶望したように膝で蹴りあげてくる。顔は嫌悪に歪んでいた。強姦されるかたちを、無意識のうちに演じている、と岩崎は眺めた。〔・・・〕


にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。


やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』1986年)


さらにさらにーー、

実に、女性たちが頻繁に告白する典型的な幻想がある。つまり女性たちは、享楽を獲得するために、男性の虐待の対象として自らを表象する。剥き出しにされ、打たれ、貶められること。あたかも真正な女を感じるために必要不可欠であるかのようにして。この「自らを苦しめること」は望んで遠回りの道を取る。たとえば美しくあれという要請は、しばしば美学化されたマゾヒズムの仮面にすぎない。

Il y a bien à rendre compte des fantasmes typiques que des femmes confessent communément, à savoir que pour atteindre à la jouissance, elles se représentent en elles-mêmes comme l'objet de la persécution masculine – dépouillées, battues, déchues – comme si c'était là la condition sine qua non pour se sentir authentiquement femme. Ce “se faire souffrir” emprunte volontiers des chemins détournés. Par exemple, l'impératif d'être belle n'est souvent que le masque du masochisme esthétisé. (J.-A. Miller, Mèrefemme, 2015)

無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]《(フロイト『性理論三篇』第一篇 , 1905年)



さらにさらにさらにーー、


ぬっと入れ まず抜いてみる 伊勢の留守

恋の闇    ヒメは小声で    ここだわな 

早くして  仕舞いなと  ヒメひんまくり 

をしいこと    まくる所をヒメ    呼ばれ


ーー誹風末摘花


ワカルカイ、何が言いたいか


キミの「アノ」反復癖は幼少の砌の髑髏だよ

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。……(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)




永遠回帰するんだよ、ーー《強い父への固着をもった少女の夢[Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung]》(フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年)が。


いやシツレイしました、個人的なエアリプをしてしまって。