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2024年8月14日水曜日

きみはそう言ってるから多分そうではないだろうよ

 

精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)


これを言っちゃあオシマイのところがあるがね、とくに日本ではチョロい精神科医やら心理学者やらがチョロいこと言ってる環境にあるからな。


とはいえ次のことは確かだよ、


精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)


この中井久夫はほぼ次のラカンだね、

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


つまり話す身体とは欲動の身体のことだ。


そもそも女に惚れてるときは、みんな精神科医やってんじゃないかね、「こう言ってるからこうではないだろう」ってのをさ。


真理の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。Nous ne cherchons la vérité que dans le temps, contraints et forcés. Le chercheur de vérité, c'est le jaloux qui surprend un signe mensonger sur le visage de l'aimé. 


それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。C'est l'homme sensible, en tant qu'il rencontre la violence d'une impression. 


それは、天才がほかの天才に呼びかけるように、芸術作品が、おそらくは創造を強制するシーニュを発する限りにおいて、読者であり、聴き手である。C'est le lecteur, c'est l'auditeur, en tant que l'œuvre d'art émet des signes qui le forcera peut.être à créer, comme l'appel du génie à d'autres génies.

恋する者の沈黙した解釈の前では、おしゃべりの友人同士のコミュニケーションはなきに等しい。Les communications de l'amitié bavarde ne sont rien, face aux interprétations silencieuses d'un amant. (ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)




男のうそはまだカワイイもんだがね、女のうそってのは厄介だよ。自分のうそに気づいていない場合が多いからな。

人がうそをついていることに気づかなくなるのは、他人にうそばかりついているからだけでなく、また自分自身にもうそをついているからである。ce n'est pas qu'à force de mentir aux autres, mais aussi de se mentir à soi-même, qu'on cesse de s'apercevoir qu'on ment, (プルースト「ソドムとゴモラ」1922年)

最もよく見られる嘘は、自分自身を欺く嘘であり、他人を欺くのは比較的に例外の場合である。Die gewöhnlichste Lüge ist die, mit der man sich selbst belügt; das Belügen andrer ist relativ der Ausnahmefall. (ニーチェ『反キリスト』第55番、1888年)




書物だってほんとは同じだよ、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」ってのは。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]。〔・・・〕かつまた次のことは疑うべき何ものかである。すなわち「哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.]」(ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)



以上、「きみ向けの」エアリプでした。