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2024年8月17日土曜日

「違うわ、坊や、幸いなことによ」


フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine] (ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)


ーーとミシェル・レリスのジャコメッティ論を引用したところだが、「引き出し」のなかに散乱しているレリスに関わる文献をここにいくらかまとめておく。




《トラウマ》は日常言語の言葉になっている。だが出発においてのトラウマの語源は「傷を癒す」« guérir la blessure »である。ジャック=アラン・ミレールは 『成熟の年齢』(自伝)のなかのミシェル・レリスについて話していた。レリスは4歳で、テーブルの縁についていた。彼の母がとてもブルジョワ風にお茶を飲んでいた。彼はティーカップで遊び、突然起こるべきことが起こりカップが落ちた。レリスは目を瞠り、カップが割れるのを見て言った、《腹立つ![ …'reusement ! ]》。母はレリスに言った、《違うわ、坊や、幸いなことによ[non mon chéri, Heureusement]》。そしてこれが彼の生のトラウマである。これが作家としての彼の生を決めた。トラウマを引き起こすものは、ときに、口にされたわずかなフレーズである。たんに大きな恐怖ではない。

« Traumatisme » est devenu un mot de la langue courante mais au départ, son étymologie est « guérir la blessure ». Il y a cet exemple donné par Jacques-Alain Miller, il parlait de Michel Leiris dans « L’âge d’homme ». Il a quatre ans, il est au bord de la table, sa mère prend le thé très bourgeoisement, il joue avec une tasse de thé au bord, et tout d’un coup, arrive ce qui doit arriver, la tasse tombe. Leiris est saisi par le truc, il voit la tasse qui va s’écraser au sol, et il lui sort : « …’reusement ! ». Et sa mère lui dit « non mon chéri, Heureusement », et c’est le trauma de sa vie, ça décide de sa vie d’écrivain. Ça m’évoque que ce qui fait trauma c’est parfois une petite phrase dite, c’est pas simplement le grand effroi.(Georges Haberberg,« Traumatismes »2018)


トラウマとあるが、フロイトにおいてトラウマは常に《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》 (『続精神分析入門』第29講, 1933 年)であり、さらに《トラウマは自己身体の出来事[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper ]》(『モーセと一神教』3.1.3、1939年)であって、上にあるように「恐怖」に関わる出来事に限定されない。


結局、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言葉のモノ性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《一者の身体の孤独における享楽を引き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien] 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年)


◾️ララング=喃語=母の言葉=言葉のモノ性

ラカンによれば、ララングは一つの言葉であり、"喃語 lallation"と同音的である。

Lalangue écrite en un mot, assonante avec la lallation selon Lacan. (Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)

ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ラカンは言語の二重の価値を語っている。実体のない意味媒体と言葉のモノ性(ララング)の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps,  2016)


言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)



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◾️言語は存在しない、ララングしかない

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。

il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)


◾️ララング≒サントーム=モノの名=母の名

サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる[le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)



◾️モノ=現実界=サントーム=トラウマ=レミニサンス

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

サントームは現実界、無意識の現実界に関係する[(Le) sinthome,  …ce qu'il a à faire avec le Réel, avec le Réel de l'Inconscient]   (Lacan, S23, 17 Février 1976)

私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.   …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)



なおラカンの現実界は固着のトラウマである。

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1  07 Juillet 1954)


同化不能とはフロイトのモノの定義である。

同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)


例えば、ラカンが《現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »]》  (Lacan, S16, 05  Mars  1969 )というとき、固着に回帰することを意味する、ーー《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] 》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)。これは事実上、母の名への回帰である。


………………


※附記


ジャック=アラン・ミレールは次のように言っている。

分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. 〔・・・〕われわれはトラウマ化された享楽を扱っているのである[Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


フロイトは次のように言い続けた。

幼児期の最初の数年間は、非常に強い、だが短期間の女への固着(おおむね母への固着)の時期がある[in den ersten Jahren ihrer Kindheit eine Phase von sehr intensiver, aber kurzlebiger Fixierung an das Weib (meist an die Mutter) durchmachen](フロイト『性理論三篇』1905年、1910年注)

おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年)

少女のエディプスコンプレクスは、前エディプス的母拘束[präödipale Mutterbindung] の洞察を覆い隠してきた。しかし、この母拘束はこよなく重要であり永続的な固着を置き残す[Der Ödipuskomplex des Mädchens hat uns lange den Einblick in dessen präödipale Mutterbindung verhüllt, die doch so wichtig ist und so nachhaltige Fixierungen hinterläßt. ](フロイト「女性性 Die Weiblichkeit」『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


ーー《対象への欲動の拘束を固着と呼ぶ[Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung ]》(フロイト「欲動とその運命』1915年)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


現代ラカン派において、この「母への固着」は、何よりもまず「ララングへの固着」=「母の言葉への固着」を意味するのである。


なお言葉への固着はフェティッシュ的固着でもある。



フロイトの鼻のつやは、対象選択の条件を支配するオペレーターであり、ララングの要素に還元しうる。

« brillant sur le nez »,[...] c'est-à-dire l'opérateur qui préside à la condition de choix d'objet, est réduit à un élément de lalangue, (Pierre-Gilles Guéguen, PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ ,2010)

「鼻のつや」がある女性のみに魅惑される男の事例。これはララングを構成する機能にかかわり、ラカンが無意識のリアルと言ったものに相当する。 « brillant sur le nez». [...] la fonction constituante de lalangue [...]ce que Lacan dit du réel de l'inconscient (Colette Soler, La répétition provoquée 2010、摘要)


この鼻のつやはフロイトのフェティシズム論文に次の形で現れる。


この数年のあいだに私は、何人かの男性で、フェティッシュに支配された対象選択[Objektwahl von einem Fetisch beherrscht war]をしている者を、分析的に研究する機会をもった。これらの人物は、フェティッシュが原因で分析を受けたととらないでいただきたい。というのは、フェティッシュは、確かにその信奉者から異常なものと認められてはいるのだが、病気の症状と感じとられていることはごく稀だからである。たいてい彼らはそのフェティッシュにまったく満足しており、あるいはかえって、彼らの愛の生[Liebesleben]に役立つ便宜さを高くかってさえいる。このようなわけで、フェティッシュは通例一つの副次的な所見にしかなっていなかった。〔・・・〕

最も奇妙だったのはある青年の事例で、彼はある種の 「鼻のつや」をフェティッシュ的条件[einen gewissen »Glanz auf der Nase« zur fetischistischen Bedingung]にしていた。この例は、つぎのような事実によって、その思いがけない真相が明らかになった。患者はイギリスで行儀作法をしつけられ、後にドイツにやってきたが、そのときには母国語はほとんど完全に忘れていた。この小児期の初期に由来しているフェティッシュは、ドイツ語ではなく、英語で読まれるベきもので、「鼻のつや」は、 本来「鼻への一瞥」[der »Glanz auf der Nase« war eigentlich ein »Blick auf die Nase« ( glance = Blick)]なのである。こうして鼻は、結局、彼から勝手に、他人には分からぬような特殊な輝きをつけ加えられて、フェティッシュとなっていたのである。

フェティッシュの意味と意図について分析した結果明らかになったことは、すべての症例において同一であった。それは、強いられることなく自然に明らかになったものであり、しかも、私には確信を強いるほどのものに思われたので、私は、一般にフェティシズムの例すべて[Lösung allgemein für alle Fälle von Fetischismus zu erwarten]にこれと同じ解答が当てはまるだろう、と思っている。ここで私が、フェティッシュはペニスの代理である[der Fetisch ist ein Penisersatz]といえば、きっと落胆をよび起こすであろう。そこで、急いで補足しておくが、これは任意のペニスではなく、小児時代の初期にはある大きな重要性をもっているが、後には失われるときめられた、まったく特殊なペニスの代理である。その意味は、普通なら当然断念されるべきであったのだが、それを没落から守るべく定められたのが、ほかならぬフェティッシュということである。さらに分かりやすくいえば、フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter)]。(フロイト『フェティシズムFetischismus』1927年)



以上、ララングへの固着とは「ララングへのフェティッシュ的固着」ーー上の文ではフロイトは母に限っておらず養育者であるが、究極的には最初期の身体の世話役である母、その「母の言葉へのフェティッシュ的固着」ーーとすることができる。こうして冒頭のミシェル・レリスの文と直接的につながることになる、《フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine] 》(ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929)