リチャード・ウルフ Richard D. Wolff@profwolff Mar 27, 2023 資本主義が衰退するとき、企業や富裕層は、衰退のコストを庶民に負担させることで、自分たちの利益や富を守るようになる。インフレと金利の上昇が、今それを助けている。 |
As capitalism declines, corporations and the rich protect their profits and wealth by offloading costs of decline onto average people. Inflation and rising interest rates help do that now. |
ーーだろうな、《企業や富裕層は、衰退のコストを庶民に負担させることで、自分たちの利益や富を守るようになる》。
柄谷の言い方ならこうだ。
M - M' (貨幣 - 貨幣′)において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化》(マルクス『資本論』第三巻第五篇第二十四節)である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。 |
In M-M' we have the irrational form of capital, in which it is taken as logically anterior to its own reproduction process; the ability of money or a commodity to valorize its own value independent of reproduction―the capital mystification in the most flagrant form”. In the case of joint-stock capital or financial capital, unlike industrial capital, accumulation is realized not through exploiting workers directly. It is realized through speculative trades. But in this process, capital indirectly sucks up the surplus value from industrial capital of the lower level. This is why accumulation of financial capital creates class disparities, without people's awareness. That is currently happening with the spread of neo-liberalism on the global scale. |
(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016, 私訳) |
剰余価値を絞り取る先は階級格差しかなくなりつつあるんだよ。
……基軸商品の交替という観点から見ると、この次に、今までのようなヘゲモニー国家が生まれることはありそうもない。それよりも、資本主義経済そのものが終わってしまう可能性がある。中国やインドの農村人口の比率が日本並みになったら、資本主義は終る。もちろん、自動的に終るのではない。その前に、資本も国家も何としてでも存続しようとするだろう。つまり、世界戦争の危機がある。(柄谷行人「第四回長池講義要綱 歴史と反復」2009年) |
不幸だねえ、「主人はマネー」の行き詰まりの時代に、壮年期を生きなければならないキミたちは。 |
このまま右肩上がりを前提にし続ければ、意外に人類の滅亡は早いんじゃないでしょうか。 もはや、滅亡をどう先送りするかという地点にまで来てしまったのではないでしょうか。〔・・・〕 民主主義の極地は、「民意」という名の下に全体主義の形を取り、全体主義の極地は、国家間の境界を越えた超資本主義の形を取ります。 ここで、無主主義という観念を導入した方がいいと思います。今は民主主義が尖鋭化して 全体主義になった状況を考えた方が世界を見易いですが、独裁者がいるかと問われれば、 いないでしょう。主人はマネーかもしれないんです。(古井由吉『新潮 45』2012 年 1 月号 片山杜秀との対談) |
近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。 その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉『しぶとく生き残った末裔として』 インタビュー富岡幸一郎『すばる』2015年9月号) |
資本の言説だけでなく科学の言説もとんでもない領域に入ってしまっているからな、
21世紀の象徴秩序…それはフロイトが「文化の中の居心地の悪さ」と呼んだものの成長、ラカンが「文明の行き詰まり」として解読したものの成長とともにある。 それは20世紀を置き去りにし、世界における我々の実践を更新し、二つの歴史的要因によって存分に再構成された。つまり科学の言説と資本の言説である。現代のこの支配的言説は、その出現以来、人間の経験の伝統的構造を破壊し始めている。それぞれが他方に依存しているこれら 2 つの言説の複合的な支配は、伝統の最も深い基盤を破壊し、おそらく粉砕することに成功するほどの規模になった。 |
L'ordre symbolique au XXIème siècle …de ses coordonnées inédites au XXIème siècle, au moment où se développe ce que Freud appelle : « Le malaise dans la culture », que Lacan lira comme les impasses de la civilisation. Il s'agit de laisser derrière soi le XXème siècle, pour renouveler notre pratique dans le monde, lui-même suffisamment restructuré par deux facteurs historiques, deux discours : le discours de la science et le discours du capitalisme. Ces discours dominants de la modernité ont commencé, depuis leur apparition, à détruire la structure traditionnelle de l'expérience humaine. La domination combinée de ces deux discours, chacun s'appuyant sur l'autre, a pris une telle ampleur qu'elle a réussi à détruire, et peut-être à briser, les fondements les plus profonds de la tradition. |
(ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE, 27 avril 2012 ) |
古井由吉曰くの《僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな》ってのは、今の年配者のかなりの割合の人が密かに思ってる筈だよ。
もっと卑近な話ならーー最近はあまり言わないようにしてるんだがーー、もはや社会保障制度、とくに年金なんてもつ筈ないからな。既にこんな風になってるんだから[参照]。
つまり1990年には高齢者1人当たりに対して生産年齢人口約6人でまかなっていたのに2020年には約2人で仕送りしなくちゃならない。
仮に高齢者の定義をただちに75歳以上に改め、生産年齢人口を15歳から74歳としたってーー2020年時点で7509+1742=9241に対しーー、75歳以上は1860万人もいる。つまり1990年の65歳以上1489万人を遥かに上回るんだからもはや絶望的だよ。借金雪だるまで財政崩壊あるいはハイパーインフレまっしぐら以外の道はない。
さらに少子高齢化は日本は最先進国だとはいえ、世界人口自体、急速に高齢化している。
(高齢者の国際的動向、内閣府 令和4年) |
少なくとも世界的にーー移民政策で社会保障制度を支えてきたヨーロッパにおいてはなかんずくーーケインズ主義はもはやそれほど長くもたないよ。
ある意味では冷戦の期間の思考は今に比べて単純であった。強力な磁場の中に置かれた鉄粉のように、すべてとはいわないまでも多くの思考が両極化した。それは人々をも両極化したが、一人の思考をも両極化した。この両極化に逆らって自由検討の立場を辛うじて維持するためにはそうとうのエネルギーを要した。社会主義を全面否定する力はなかったが、その社会の中では私の座はないだろうと私は思った。多くの人間が双方の融和を考えたと思う。いわゆる「人間の顔をした社会主義」であり、資本主義側にもそれに対応する思想があった。しかし、非同盟国を先駆としてゴルバチョフや東欧の新リーダーが唱えた、両者の長を採るという中間の道、第三の道はおそろしく不安定で、永続性に耐えないことがすぐに明らかになった。一九一七年のケレンスキー政権はどのみち短命を約束されていたのだ。 |
今から振り返ると、両体制が共存した七〇年間は、単なる両極化だけではなかった。資本主義諸国は社会主義に対して人民をひきつけておくために福祉国家や社会保障の概念を創出した。ケインズ主義はすでにソ連に対抗して生まれたものであった。ケインズの「ソ連紀行」は今にみておれ、資本主義だって、という意味の一節で終わる。社会主義という失敗した壮大な実験は資本主義が生き延びるためにみずからのトゲを抜こうとする努力を助けた。今、むき出しの市場原理に対するこの「抑止力」はない(しかしまた、強制収容所労働抜きで社会主義経済は成り立ち得るかという疑問に答えはない)。(中井久夫「私の「今」」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |