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2024年11月12日火曜日

国家と国民国家の違いーーヘーゲルの国家の定義とアンダーソンの国民国家


前回の「日本における国民国家成立過程」の続きとして記すが、なによりもまずは国家と国民国家とは違う。「日本」という命名はかつてからある、『日本書紀』という古典が示しているように。日の出る国、すなわち日の本の国だ。「白村江の戦い」での惨敗を経て、唐に対して、倭国を主権国家として扱ってくれとの含意をもつ親書を送ったことから、おそらく「日本」は始まる。つまり唐皇帝と日本天皇は対等の立場だという外交政策の帰結である。






そもそも白村江の戦いの日本側は、数だけは多いが、豪族軍と国造軍の寄せ集め集団に過ぎなかった。ここでは司馬遼太郎を掲げておこう。


それぞれがそれぞれの神をいただ<諸氏族連合の日本部隊>が玄界灘を北上してゆく。諸氏族連合であるため指揮系統もあいまいで、組織からいえば軍隊というより弓矢をもった集団にすぎない面も多かったに違いない」(司馬遼太郎『街道をゆく2』「韓のくに紀行」)



とはいえ、かつての国家は日本に限らず、外部に向けての国家であり、内部への国家ではない。これはーー私は柄谷行人の『トランスクリティーク』での引用で知ったのだがーー、ヘーゲルの国家の定義にほかならない。


かつての封建的君主制にあっては、国家は外部に向けてはいかにも主権をもっていたけれども、内部に向けては君主のみならず、国家も主権をもっていなかった。第一に、国家や市民社会の特殊な業務や権力はバラバラの自立した職業団体や教区ので組成されていて、したがって、全体は一つの有機的組織であるよりも、むしろ一つの集合体であった。第二に、それらは諸個人の私的な所有物であって、それゆえ、彼らが全体を考慮してなすべき事態は、彼らの意見(思いこみ)や好みに任されていた。

In der ehemaligen Feudalmonarchie war der Staat wohl nach außen, aber nach innen war nicht etwa nur der Monarch nicht, sondern der Staat nicht souverän. Teils waren die besonderen Geschäfte und Gewalten des Staats und der bürgerlichen Gesellschaft in unabhängigen Korporationen und Gemeinden verfaßt, das Ganze daher mehr ein Aggregat als ein Organismus, teils waren sie Privateigentum von Individuen und damit, was von denselben in Rücksicht auf das Ganze getan werden sollte, in deren Meinung und Belieben gestellt. 

(ヘーゲル『法の哲学』Hegel Grundlinien der Philosophie des Rechts, § 278, 1821 )



この国家とネーション(国民・民衆・農業共同体)の結婚が、フランス革命以後に起こった。そしてその前に資本(都市・市場)との結婚がある。これが少なくとも柄谷行人の21世紀以降の思考の基盤である。

繰り返し引用しているが、ここでも再掲しよう。

ベネディクト・アンダーソンは、ネーション=ステートが、本来異質であるネーションとステートの「結婚」であったといっている。これは大事な指摘であるが、その前に、やはり根本的に異質な二つのものの「結婚」があったことを忘れてはならない。国家と資本の「結婚」、である。


国家、資本、ネーションは、封建時代においては、明瞭に区別されていた。すなわち、封建領主(領主、王、皇帝)、都市、そして、農業共同体である。それらは、異なった「交換」の原理にもとづいている。

すでに述べたように、国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。第二に、そのような国家機構によって支配され、相互に孤立した農業共同体は、その内部においては自律的であり、相互扶助的、互酬的交換を原理にしている。第三に、そうした共同体と共同体の「間」に、市場、すなわち都市が成立する。それは相互的合意による貨幣的交換である。


封建的体制を崩壊させたのは、この資本主義的市場経済の全般的浸透である。だが、この経済過程は政治的に、絶対主義的王権国家という形態をとることによってのみ実現される。絶対主義的王権は、商人階級と結託し、多数の封建国家(貴族)を倒すことによって暴力を独占し、封建的支配(経済外的支配)を廃棄する。それこそ、国家と資本の「結婚」にほかならない。商人資本(ブルジョアジー)は、この絶対主義的王権国家のなかで成長し、また、統一的な市場形成のために国民の同一性を形成した、ということができる。しかし、それだけでは、ネーションは成立しない。ネーションの基盤には、市場経済の浸透とともに、また、都市的な啓蒙主義とともに解体されていった農業共同体がある。それまで、自律的で自給自足的であった各農業共同体は、貨幣経済の浸透によって解体されるとともに、その共同性(相互扶助や互酬制)を、ネーション(民族)の中に想像的に回復したのである。ネーションは、悟性的な(ホップス的)国家と違って、農業共同体に根ざす相互扶助的「感情」に基盤をおいている。そして、この感情は、贈与に対してもつ負い目のようなものであって、根本的な交換関係をはらんでいる。


しかし、それらが本当に「結婚」するのは、ブルジョア革命においてである。フランス革命で、自由、平等、友愛というトリニティ(三位一体)が唱えられたように、資本、国家、ネーションは切り離せないものとして統合される。だから、近代国家は、資本制=ネーション=ステート(capitalist-nation-state)と呼ばれるべきである。それらは相互に補完しあい、補強しあうようになっている。

たとえば、経済的に自由に振る舞い、そのことが階級的対立に帰結したとすれば、それを国民の相互扶助的な感情によって解消し、国家によって規制し富を再配分する、というような具合である。その場合、資本主義だけを打倒しようとするなら、国家主義的な形態になるし、あるいは、ネーションの感情に足をすくわれる。前者がスターリン主義で、後者がファシズムである。このように、資本のみならず、ネーションや国家をも交換の諸形態として見ることは、いわば「経済的な」視点である。そして、もし経済的下部構造という概念が重要な意義をもつとすれば、この意味においてのみである。

この三つの「交換」原理の中で、近代において商品交換が広がり、他を圧倒したということができる。しかし、それが全面化することはない。資本は、人間と自然の生産に関しては、家族や農業共同体に依拠するほかないし、根本的に非資本制生産を前提としている。ネーションの基盤はそこにある。一方、絶対主義的な王(主権者)はブルジョア革命によって消えても、国家そのものは残る。それは、国民主権による代表者=政府に解消されてしまうものではない。国家はつねに他の国家に対して主権国家として存在するのであって、したがって、その危機(戦争)においては、強力な指導者(決断する主体)が要請される。ポナパルティズムやファシズムにおいて見られるように。現在、資本主義のグローバリゼーションによって、国民国家が解体されるだろうという見通しが語られることがある。しかし、ステートやネーションがそれによって消滅することはない。


たとえば、資本主義のグローバリゼーション(新自由主義)によって、各国の経済が圧迫されると、国家による保護(再配分)を求め、また、ナショナルな文化的同一性や地域経済の保護といったものに向かうことになる。資本への対抗が、同時に国家とネーション(共同体)への対抗でなければならない理由がここにある。資本=ネーション=ステートは三位一体であるがゆえに、強力なのである。そのどれかを否定しようとしても、結局、この環の中に回収されてしまうほかない。資本の運動を制御しようとする、コーポラティズム、福祉国家、社会民主主義といったものは、むしろそのような環の完成態であって、それらを揚棄するものではけっしてない。(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」2001年)


ーー『トランスクリティーク』とはこのイントロダクションの詳述化が記されている書といってもよいぐらいだ。



話を戻せば、日本の「国民国家」の場合は、前回掲げた《幕藩体制下では『クニ』とは藩のことで、庶民レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『天皇』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた》(宮台真司『ニッポン問題。M2:2』2003年)、あるいはベネディクト・アンダーソンの次の記述をベースとしてよいのではないか。



明治人は、半ば幸運な3つの要因に助けられた。第一に、2世紀半に及ぶ鎖国と幕府による国内の平定によって、比較的高い民族文化的同質性である。〔・・・〕

第二に、天皇家の万邦無比の古さ(日本は有史以来、君主制が単一の王朝によって独占されてきた唯一の国である)と、その象徴的な日本性(ブルボン家やハプスブルク家とは対照的)により、公定ナショナリズムの目的のために天皇を利用することはむしろ容易であった。〔・・・〕

第三に、夷人が突然、一挙に脅威的に侵入してきたため、政治的に意識のある人たちの大半が新しい国民的条件で抱かれた国防計画を容易に結集することができた。

the men of Meiji were aided by three half-fortuitous factors. First was the relatively high degree of Japanese ethnocultural homogeneity resulting from two and a half centuries of isolation and internal pacification by the Bakufu. (…) 

Second, the unique antiquity of the imperial house (Japan is the only country whose monarchy has been monopolized by a single dynasty throughout recorded history) , and its emblematic Japanese-ness (contrast Bourbons and Habsburgs) , made the exploitation of the Emperor for official-nationalist purposes rather simple . (…) 

Third, the penetration of the barbarians was abrupt, massive, and menacing enough for most elements of the politically-aware population to rally behind a programme of self-defence conceived in the new national terms.

(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年)



国民国家成立時期については論者によって微妙な差異があるがね、柄谷曰くなら、《日本で「国民国家」という感じが出てくるのは、日露戦争以後、対外的緊張からしばらく解放されて、内部の問題を見る余裕ができた時期です。そのとき、いわば「民権」派が盛り返してきた。一九二五年には普通選挙法も通った。そのような過程が「大正デモクラシー」と呼ばれています。〔・・・〕この時期には、明治時代にはなかったようなタイプのナショナリズムが出てきます。つまりネーションが重要な意味をもつようになったのです。》(柄谷行人『 「世界史の構造」を読む』2011年)。ここでの柄谷も先のヘーゲルの《かつての封建的君主制にあっては、国家は外部に向けてはいかにも主権をもっていたけれども、内部に向けては君主のみならず、国家も主権をもっていなかった》を念頭に置きながら読むべきである。


というわけだが、「白村江の戦い」について触れたついでに、中井久夫の文を補足の意味で掲げておこう。



歴史にみる「戦後レジーム」


年金問題の陰に隠れているが、首相(安倍)が脱却したいという「戦後レジーム」とは何か。ほとんど内容が取り上げられず、また何に変わりたいのか、誰もいわない。そこで私は射程をぐっとのばして日本史全体を眺めなおしてみようと思う。


日本史上、大陸への大規模外征は三度行なわれ、悉く失敗している。その後には必ず旧敵国の優れた制度を導入して、一時の混乱はあっても、安定した平和の時代を迎えることに成功している。「戦後レジーム」もその一例であると、私は見る。


天智天皇二年(六六三年)百済王子を擁して朝鮮半島に傀儡政権樹立を試みた倭の約四百隻の艦隊は、百隻の唐艦隊に白村江河口において短時間で全滅した。古代の「ミッドウェー海戦」である。以後、日本は専守防衛に転じて半島出兵をやめ、唐の国制を取り入れて内政を整備し、半世紀かけてようやく唐との国交回復をなしとげた。


南蛮人の世界征服に刺激されたかもしれない秀吉の朝鮮出兵も、戦争目的を果たせずに終わった。後を継いだ徳川政権は朝鮮の国学である朱子学を採用し、儒教にもとづく文治政策を打ち出し、朝鮮との修好に努めた(維新の際に徳川に援軍を送ろうという提案が朝鮮政府の中に起こっている)。


江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。


「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。


天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。


ドイツとは全然違った。ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。


なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。日本国憲法は、当時の日本側の提出する大日本帝国憲法の焼き直しに業を煮やして米国主導で作られたので、仮に日本側草案が行なわれていたら、戦後の日本人は民主主義を享受できなかっただろう。また、日本国憲法は先に列挙した徳川幕府の祖法にもかなり似ている。軽武装・経済中心は日本人に馴染むものである。


憲法二〇条の政教分離規定は詳細を極める。当時国内外にあったキリスト教の国教化運動の道を断つ規定であることに注目したい。マッカーサー元帥の信仰はスコットランド長老教会かと思う。勤勉、節約、清潔、貯蓄を徳目とする宗教的少数派である。キリスト教の国教化と表記のローマ字化とをしなかったのは、米占領軍の「なさざるの功績」である。


白村江の戦いの前は部族間抗争が大詰めを迎えていた。昭和の敗戦の前は、明治以後敗戦までの「レジーム」であった。半世紀だった安土桃山時代と同じく「レジーム」というよりも、本質的に不安定な「移行期」で、立役者の寿命しか持たなかった。明治維新を闘った最後の元老・西園寺公望の死と敗戦への引き返し不能点である日独伊三国同盟とは、どちらも一九四〇年である。この「移行期」は維新以後七二年で終わったということができる。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)




この文は、最近とくに前面に出ている議論、「日本は第二次世界大戦以後、実際は主権などなく米属国に過ぎない」と要約できる主張あるいはその観点からはいくら批判的に読む箇所がないではないがーーロシアの哲学者アレクサンドル・ドゥーギンは《現代のドイツや日本の行動に対する憤慨は無駄である。第二次世界大戦の結果、彼らは西側の奴隷となり、事実上、存在しないのである》とまで言っている[参照]、ーー白村江の戦い以後の経緯だけでなく、「江戸」をめぐる記述はきわめて秀逸だと私は思う。目立つ行為はきびしく罰せられた江戸時代だが、これらの話の原点にあるのは、日本人はなぜ「大勢がなさざるの共犯者」になってしまうかという問いである。