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2025年6月28日土曜日

寄生はいつまで出来るんだろうね

 


ははあ、そうか。厚労省の生活保護費減額判断を初めて違法としたか。

斎藤環が4年ほど前、「医療倫理」という語を口に出してこう言っていたのを思い出したね。




この発言のベースはおそらく2001年の次の鼎談にある。


◼️「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」

浅田)マクルーハンの言うグローバル・ヴィレッジではなくローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で…馴れ合っているかと思うと、とつぜんキレる。そういう1か0かのコミュニケーションが多いですね。


斉藤)コミュニケーション・チャンネルは複数が並行して使われ、会って話し、携帯で話し、メールを送り、手紙を渡してと、非常に密に使われている一方、内容には深まりがない。とくに個人的な葛藤がほとんど語られなくなっている。もちろん恋愛などの対人葛藤は出てくるのですが、個人の内面的葛藤は、相手がまったく受け入れないことが分かっているので、出てこない。出そうとしない。

浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、そのー方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。

斎藤)ただ、数十万の規模で存在するひきこもりの人々に向かって、「君たちは間違っている」とは言えない。間違いであることを承知しつつ、そういう人たちを一旦は受け入れなければいけないでしょう。PTSDについても同じで、「小さな傷を事々しく言い立てているだけではないか」とは言えない。まず、本人にとっての真実、すなわち「心的現実」を享け入れるところから始めざるを得ないんですね。


浅田)治療者としての立場からそう言われるのはよく分かります。ただ、社会一般の現象として見た場合、一方で浅いコミュニケーションが全面化し、他方でありもしない深いコミュニケーションを求めたあげくひきこもりに帰着するという現状は、不毛な二極分解と言わざるを得ないですね。


斎藤)ラカン的に言うと、言葉によるコミュニケーションというのは、コミュニケーションの不可能性の方が先にあって、その上で成り立っている奇跡的なものとしてのコミュニケーションであるわけですから、そういう捉えかたのほうが真っ当だとは思います。しかし、治療の場面では「それを言っちゃあおしまい」ですから(笑)。

浅田)まあ、ラカンのように難しいことを言うまでもなく、人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたらまったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。


斎藤)ひきこもりの最高年齢がちょうど私と同じ年齢で、世代論は避けたいと思ってはいてもやはりそこには何かがあるという気がします。共通一次試験と特撮アニメの世代ですね。例えば「働かざるもの食うべからず」といった倫理観を自明のこととして理解できず、むしろ働けなければ親が養ってくれると思っている。


中井)先行世代がバブルにいたるまで蓄積し続けたから、寄生できるんだね


斎藤)経済的飢餓感も政治的な飢餓感もない。妙に葛藤の希薄な状況がある。ある種、欲望が希薄化しているようなところがあるわけです。なにがなんでもこれを表現せねばならない、というようなものもないんですね。

中井)これはいつまで続くんだろうね。その経済的な前提というのは、場合によったら失われるわけでしょう。震災だってある。欠乏したとき、いったいどうなるのか。


斎藤)ひきこもりの人たちというのは、日常に弱くて、非日常に強いところがあります。父親が事故で亡くなったりすると、急に仕事を探し始めたりして、わりと頑張りがきくところがある。だから、必然的な欠乏が早くくれば救われるということはありますね。


浅田)治療者としての斎藤さんは拙速な「兵量攻め」には反対しておられるけれども、一般的には、欠乏に直面して現実原則に目覚めるのが早いのかもしれませんね。

斎藤)もうひとつ、われわれの世代が子どもを持つようになって、親による児童虐待の比率がものすごく高まってきています。


中井)そのようなんだよね。


斎藤)すると、今の50代から60代の親たちのように、たとえ殴られても自分の子だからと言って大切に抱え込んでしまうケースは、今後は確実に減っていくでしょう。それを考えると、ひきこもりは今後減るだろうという予測もできるわけです。


浅田)むしろ、幼児虐待の方が心配ですね。

斎藤)もうひとつ、むしろ心配なのは、四六時中浅いコミュニケーションを続けながら自我を維持している若者が、果たしてそのコミュニティからはずれてしまったとき一体どうなるだろうということです。浅田さんが以前に「アーバン・トライバリズム」とおっしゃっていたけれど、まさにそのとおりで、みな村人なんです。近くに住んでいるということだけで、貧富の差も、勉強のできるできないもない、みな同じようなジャージを着、毎日のように集まってお喋りしている。非常に均質化されて素朴な、どこか先祖帰りしてようなコミュニティです。池袋の若者は渋谷や新宿に行くと疲れると言います、文化が違うのか(笑)。せっかく携帯端末を持っているんだから、グローバルにつながればいいじゃないかと思うのですが、結局は、数百メートル四方の知った顔同士のつながりです。携帯というのは、そういうトライバリズムを強化しているツール、閉じた共同体の浅いコミュニケーションを延々と続けるためのツールなんです。


浅田)まあ、平和な村の暮らしがつづいている間はいいんだろうけれど…。

(「批評空間」2001 Ⅲ-1 斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より)


で、どうするんだろうね、生活保護に限らず、このまま現在の社会保障制度が続くわけはないのに。




一つのことが明らかになっている。それは、福祉国家を数十年にわたって享受した後の現在、我々はある種の経済的非常事態が半永久的なものとなり、我々の生活様式にとって常態になった時代に突入した、という事実である。こうした事態は、給付の削減、医療や教育といったサービスの逓減、そしてこれまで以上に不安定な雇用といった、より残酷な緊縮策の脅威とともに、到来している。〔・・・〕現下の危機は早晩解消され、ヨーロッパ資本主義がより多くの人びとに比較的高い生活水準を保証し続けるだろうといった希望を持ち続けることは馬鹿げている。

One thing is clear: after decades of the welfare state, …we are now entering a period in which a kind of economic state of emergency is becoming permanent: turning into a constant, a way of life. It brings with it the threat of far more savage austerity measures, cuts in benefits, diminishing health and education services and more precarious employment.(…) It would thus be futile merely to hope that the ongoing crisis will be limited and that European capitalism will continue to guarantee a relatively high standard of living for a growing number of people. ZIZEK, A PERMANENT ECONOMIC EMERGENCY2010年)



さらに言えば「現在の資本主義システム」自体が続くわけはないのに。


近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。


その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(古井由吉「すばる」2015年9月号)



ま、ここまで言わないでも当面は新自由主義だがね(参照)。

今、市場原理主義がむきだしの素顔を見せ、「勝ち組」「負け組」という言葉が羞かしげもなく語られる時である。(中井久夫「アイデンティティと生きがい」『樹をみつめて』所収、2005年)

「帝国主義」時代のイデオロギーは、弱肉強食の社会ダーウィニズムであったが、「新自由主義」も同様である。事実、勝ち組・負け組、自己責任といった言葉が臆面もなく使われたのだから。(柄谷行人「長池講義」2009年)



◼️ポール・バーハウ「新自由主義は私たちの中にある最悪のものを引き出した」2014年9月29日

Neoliberalism has brought out the worst in us, Paul Verhaeghe,  The Guardian 29 Sep 2014 

ーーサイコパス的な性格特性に報いる経済システムが私たちの倫理観と性格を変えてしまった

An economic system that rewards psychopathic personality traits has changed our ethics and our personalities

私たちは、自己のアイデンティティは変動のないもので、外部の力から大きく分離されていると認識しがちである。しかし私は、数十年にわたる研究と治療の実践を通して、経済の変化は私たちの価値観だけでなく、人格にも大きな影響を与えていると確信するようになった。 30年にわたる新自由主義、自由市場主義、民営化の弊害で、絶え間ない達成への圧力が常態化している。 もしあなたがこれを懐疑的に読んでいるなら、私はこう断言する。実力主義的な新自由主義は、特定の性格特性を優遇し、他の特性を不当に扱うと。


今日、キャリアを築くには、理想的な資質がいくつか求められる。まず第一に、明確な意思表示ができること。これは、できるだけ多くの人々の心を掴むことを目的としている。交際は表面的なものかもしれないが、これは現代の人間関係のほとんどに当てはまるため、あまり意識されることはないだろう。

自分の能力をできる限りアピールすることが大切である。例えば、たくさんの知り合いがいて、豊富な経験があり、最近は大きなプロジェクトを終えたばかりといった具合に。後になって、それがほとんど作り話だったと分かるだろう。しかし、最初に騙されたのは、別の性格特性によるものだ。あなたは説得力のある嘘をつき、罪悪感をほとんど感じない。だからこそ、自分の行動に責任を負わないのである。


加えて、あなたは柔軟で衝動的で、常に新しい刺激や挑戦を求めている。実際には、これが危険な行動につながることもあるが心配はいらない。その責任を負わされるのはあなたではない。このリストのインスピレーションの源は?今日最も著名なサイコパス専門家、ロバート・ヘアによるサイコパシーチェックリストである。

We tend to perceive our identities as stable and largely separate from outside forces. But over decades of research and therapeutic practice, I have become convinced that economic change is having a profound effect not only on our values but also on our personalities. Thirty years of neoliberalism, free-market forces and privatisation have taken their toll, as relentless pressure to achieve has become normative. If you’re reading this sceptically, I put this simple statement to you: meritocratic neoliberalism favours certain personality traits and penalises others.


There are certain ideal characteristics needed to make a career today. The first is articulateness, the aim being to win over as many people as possible. Contact can be superficial, but since this applies to most human interaction nowadays, this won’t really be noticed.


It’s important to be able to talk up your own capacities as much as you can – you know a lot of people, you’ve got plenty of experience under your belt and you recently completed a major project. Later, people will find out that this was mostly hot air, but the fact that they were initially fooled is down to another personality trait: you can lie convincingly and feel little guilt. That’s why you never take responsibility for your own behaviour.


On top of all this, you are flexible and impulsive, always on the lookout for new stimuli and challenges. In practice, this leads to risky behaviour, but never mind, it won’t be you who has to pick up the pieces. The source of inspiration for this list? The psychopathy checklist by Robert Hare, the best-known specialist on psychopathy today.


もちろん、この説明は極端に誇張された戯画である。しかしながら、金融危機はマクロ社会レベル(例えばユーロ圏諸国間の紛争)で、新自由主義的な能力主義が人々に何をもたらすかを如実に示した。連帯は高価な贅沢品となり、一時的な同盟関係に取って代わられ、常に競争相手よりも多くの利益を上げることが最優先される。同僚との社会的なつながりは弱まり、企業や組織への感情的なコミットメントも弱まる。


いじめはかつて学校に限られていたが、今では職場でも一般的になっている。いじめは、無力な人が弱者に不満をぶつける典型的な症状であり、心理学では転移攻撃として知られている。パフォーマンス不安から、脅威となる他者に対するより広範な社会的恐怖に至るまで、根深い恐怖感が存在する。

This description is, of course, a caricature taken to extremes. Nevertheless, the financial crisis illustrated at a macro-social level (for example, in the conflicts between eurozone countries) what a neoliberal meritocracy does to people. Solidarity becomes an expensive luxury and makes way for temporary alliances, the main preoccupation always being to extract more profit from the situation than your competition. Social ties with colleagues weaken, as does emotional commitment to the enterprise or organisation.


Bullying used to be confined to schools; now it is a common feature of the workplace. This is a typical symptom of the impotent venting their frustration on the weak – in psychology it’s known as displaced aggression. There is a buried sense of fear, ranging from performance anxiety to a broader social fear of the threatening other.


職場での絶え間ない評価は、自律性の低下と、しばしば変化する外部規範への依存度を高める。これは、社会学者リチャード・セネットが的確に表現した「労働者の幼児化」につながる。大人たちは子供のような怒りを爆発させ、些細なことで嫉妬し(「彼女は新しいオフィスチェアを買ったのに、私は買ってない」など)、罪のない嘘をつき、欺瞞に訴え、他人の失敗を喜び、つまらない復讐心を抱く。これは、人々が自立して考えることを妨げ、従業員を大人として扱わないシステムが招いた結果である。


しかし、より重要なのは、人々の自尊心が深刻に損なわれていることである。ヘーゲルからラカンに至るまでの思想家たちが示してきたように、自尊心は他者から受ける承認に大きく左右される。セネットは、現代の従業員にとっての最大の問いは「誰が私を必要とするのか?」であると考え、同様の結論に至っている。そして、ますます多くの人々にとって、その答えは「誰も必要としていない」である。

Constant evaluations at work cause a decline in autonomy and a growing dependence on external, often shifting, norms. This results in what the sociologist Richard Sennett has aptly described as the “infantilisation of the workers”. Adults display childish outbursts of temper and are jealous about trivialities (“She got a new office chair and I didn’t”), tell white lies, resort to deceit, delight in the downfall of others and cherish petty feelings of revenge. This is the consequence of a system that prevents people from thinking independently and that fails to treat employees as adults.


More important, though, is the serious damage to people’s self-respect. Self-respect largely depends on the recognition that we receive from the other, as thinkers from Hegel to Lacan have shown. Sennett comes to a similar conclusion when he sees the main question for employees these days as being “Who needs me?” For a growing group of people, the answer is: no one.


私たちの社会は、努力さえすれば誰でも成功できると常に主張し、同時に特権を強化し、過重労働で疲弊した市民にさらなるプレッシャーをかけている。ますます多くの人々が挫折し、屈辱感、罪悪感、恥を感じている。私たちはかつてないほど自由に人生の進路を選択できると常に言われているが、成功物語の外側で選択する自由は限られている。さらに、失敗した人々は負け犬か、社会保障制度を食い物にする寄生虫とみなされる。


新自由主義的な能力主義は、成功は個人の努力と才能にかかっていると信じ込ませようとする。つまり、責任はすべて個人にあり、権力は人々が目標を達成するために可能な限りの自由を与えるべきだということである。制限のない選択のおとぎ話を信じる人々にとって、自治と自主管理は、特にそれが自由を約束するように見える場合、最も重要な政治メッセージである。個人は完全になり得るという考えとともに、西洋で私たちが持っていると認識している自由は、この時代の最大の虚偽だ。

Our society constantly proclaims that anyone can make it if they just try hard enough, all the while reinforcing privilege and putting increasing pressure on its overstretched and exhausted citizens. An increasing number of people fail, feeling humiliated, guilty and ashamed. We are forever told that we are freer to choose the course of our lives than ever before, but the freedom to choose outside the success narrative is limited. Furthermore, those who fail are deemed to be losers or scroungers, taking advantage of our social security system.


A neoliberal meritocracy would have us believe that success depends on individual effort and talents, meaning responsibility lies entirely with the individual and authorities should give people as much freedom as possible to achieve this goal. For those who believe in the fairytale of unrestricted choice, self-government and self-management are the pre-eminent political messages, especially if they appear to promise freedom. Along with the idea of the perfectible individual, the freedom we perceive ourselves as having in the west is the greatest untruth of this day and age.


社会学者ジグムント・バウマンは、現代のパラドクスを「これほど自由になったことはかつてない。これほど無力だと感じたことはかつてない」と簡潔にまとめている。確かに、私たちは以前よりも自由である。宗教を批判し、性に対する新たな自由放任主義的な態度を利用し、好きな政治運動を支持できるという意味で。これらすべてが可能なのは、もはや何の意味も持たないからである。こうした自由は無関心によって引き起こされる。しかし一方で、私たちの日常生活は、カフカさえも膝から崩れ落ちるような官僚主義との絶え間ない戦いとなっている。パンの塩分濃度から都市部における養鶏に至るまで、あらゆるものに規制がかけられている。

The sociologist Zygmunt Bauman neatly summarised the paradox of our era as: “Never have we been so free. Never have we felt so powerless.” We are indeed freer than before, in the sense that we can criticise religion, take advantage of the new laissez-faire attitude to sex and support any political movement we like. We can do all these things because they no longer have any significance – freedom of this kind is prompted by indifference. Yet, on the other hand, our daily lives have become a constant battle against a bureaucracy that would make Kafka weak at the knees. There are regulations about everything, from the salt content of bread to urban poultry-keeping.


私たちが当然持っている自由は、ある一つの核心条件に結びついている。それは、成功すること、つまり「何かを成し遂げる」ことだ。事例を探す必要はない。高いスキルを持ちながら、キャリアよりも子育てを優先する人は批判の的となる。良い仕事に就いているのに、他のことに時間を割くために昇進を断る人は、その仕事が成功を約束するものでない限り、正気ではないとみなされる。小学校の先生になりたい若い女性が、両親からまず経済学の修士号を取得すべきだと言われる。小学校の先生なんていったい何を考えているんだ?となる。


私たちの文化におけるいわゆる規範や価値観の喪失について、絶え間ない嘆きがある。しかし、私たちの規範や価値観は、私たちのアイデンティティの不可欠な部分を構成している。だからそれらは失われることはなく、変わることしかできないのである。そして、まさにそれが起こっている。変化した経済は、変化した倫理観を反映し、変化したアイデンティティをもたらす。現在の経済システムは、私たちの中の最悪の部分を引き出している。

Our presumed freedom is tied to one central condition: we must be successful – that is, “make” something of ourselves. You don’t need to look far for examples. A highly skilled individual who puts parenting before their career comes in for criticism. A person with a good job who turns down a promotion to invest more time in other things is seen as crazy – unless those other things ensure success. A young woman who wants to become a primary school teacher is told by her parents that she should start off by getting a master’s degree in economics – a primary school teacher, whatever can she be thinking of?


There are constant laments about the so-called loss of norms and values in our culture. Yet our norms and values make up an integral and essential part of our identity. So they cannot be lost, only changed. And that is precisely what has happened: a changed economy reflects changed ethics and brings about changed identity. The current economic system is bringing out the worst in us.



バーハウが触れている名高いサイコパス専門家ロバート・ヘア(Robert Hare)によるサイコパシーチェックリスト(The psychopathy checklist)は次のものだ(改訂最新版)。



先の一般向けとして書かれた「ガーディアン」の記事で、バーハウは《失敗した人々は負け犬か、社会保障制度を食い物にする寄生虫とみなされる》と記しているが、つまりは、不幸にも負け組になった者たちはこのサイコパス的性格特性をまったく備えていなかったせいなんだろうよ?!


より穏やかに言えば、《「変身」(変わり身の早さ)、「自己主張」「多能」などの性格》特性がまったくなく、《勤勉、集団との一体化、責任感過剰、謙譲、矛盾の回避などの徳目》を備えすぎている人が負け組になってんだろうよ。


勤勉、集団との一体化、責任感過剰、謙譲、矛盾の回避などの徳目は、第二線に退く。かわって若干の移行期をおいて「変身」(変わり身の早さ)、「自己主張」「多能」などの性格が前面に出てくる。現在の韓国エリートの性格は将来の日本のエリート層の姿でありうる。これは歴史的推移であるとともに、終身雇用の衰退、企業買収、技術革新などの論理的帰結でもある。(中井久夫の「引き返せない道」1988年)


世間がバブルに浮かれ踊っている時期に既にこのような予言をした中井久夫だが、現在の日本の精神科医ーー先の斎藤環だけではなくーー、彼らにつき纏うコモノ感は、目前の患者の利益「のみ」を優先する医療倫理にあるのではないか。もちろん中井久夫自身も次のようには言っている、《精神科医の真の栄光は、もとより印刷物や肩書きにあるのではない。その栄光の真の墓碑銘は患者とともに過ごした時間の中にある。》(中井久夫「安克昌先生を悼む」2000年『時のしずく』所収)。


とはいえ、患者に接している間に、彼らの将来はどうなってしまうのだろう、という現在の社会のあり方に視線が向かざるを得ないことが必ずある筈である、先のポール・バーハウのように。あるいはフロイト曰くの「文化共同体病理学」に。ーー《われわれとしては、いつの日か、この種の文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]という冒険をあえて試みる人が現われることを期待せずにはいられない。》(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)


そしてこの『文化の中の居心地の悪さ』とは事実上、「資本主義の中の居心地の悪さ」にほかならない。


…社会的生産様式を支えるメカニズムに対する具体的な洞察。決して誇張ではない、次のように主張することは。すなわち「資本主義の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen im Kapitalismus)」のほうが「文化の中の居心地の悪さ(Das Unbehagen in der Kultur)」より適切だと。というのは、フロイトは抽象的な文化を語ったのでは決してなく、まさに産業社会の文化を語ったのだから。強欲な消費主義、増大する搾取、繰り返される行き詰まり、経済的不況と戦争によって徴づけられる産業社会の文化を。フロイトの無意識理論に伴う認識論と政治的問題の結びつきは、資本主義が精神分析にとって重要な問題の一つであり、臨床実践が資本主義的享受様式と呼べるものの病理に絶えず直面していることを示唆している。ラカンは、次の力強い発言でこの点を強調した、「聖人となればなるほど、ひとはよく笑う。これが私の原則であり、ひいては資本の言説からの脱却なのだが、ーーそれが単に一握りの人たちだけにとってなら、進歩とはならない(Plus on est de saints, plus on rit, c'est mon principe, voire la sortie du discours capitaliste, - ce qui ne constituera pas un progrès, si c'est seulement pour certains.)」(Lacan, Télévision, AE520, Noël 1973)

精神分析と資本主義の関係は、これほどあからさまに敵対的な形で位置づけられることはまずないだろう。精神分析は資本の言説の裏側であり、その対立する裏表であり反転である。つまり、精神分析の内的境界であり、資本の言説が不安定化、妨害、反転される可能性がある点である。これは明らかに、精神分析がすでに資本主義の外に立っているとか、その支配形態から抜け出す方法についての積極的な知識を持っているということを意味するのではない。しかし、精神分析は、フロイトによって発明され、ラカンによって再発明されたように、資本主義との直接の対決を避けず、マルクスの政治経済学批判によって開始された路線を追求すること、つまり資本主義的生産様式を支える外観を不安定化させ、資本主義的社会的つながりをその不可逆的な矛盾の中で想定できる点をマークすることにあることを示唆している。ラカンの言葉を借りれば、「労働者は、疑いもなく、このシステムの真実であるこの対立要素の聖地である」(セミナー XVI 39)。この対立要素、つまりマルクスとフロイトの両者が生産的な社会的労働と無意識の労働で遭遇した主体を資本主義的搾取戦略に対抗して動員することは、精神分析と政治経済批判の共通の取り組みであり、だからこそ、精神分析家は誰も次の問いに無関心ではいられないのだ、すなわち「資本の言説からの脱却をすべての人のために実現するにはどうすればよいのか?」

(サモ・トムシックSamo Tomšič: Laughter and Capitalism, 2015, pdf)



いずれにせよ、《すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen]》(フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)。精神科医は本来、患者たちにおける社会不安、将来不安等ーー究極的には資本主義不安ーーに目を向けずにいられるわけがない。そこから逃げ出し自分の狭い専門領域のみに引きこもっている者を私はコモノと呼ぶ、《いつもそうなのだが、わたしたちは土台を問題にすることを忘れてしまう。疑問符をじゅうぶん深いところに打ち込まないからだ[Man vergißt immer wieder, auf den Grund zu gehen. Man setzt die Fragezeichen nicht tief genug.]》(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』未発表草稿)


中井久夫は常に土台に目を向けつつ精神治療にあたった人物である。


欧米資本主義ほど「悪性の」強制加入力を持つ人間的事象は他にほとんど類をみないことである(一九八九ー九〇年にはついにこの力の場の中に"社会主義"諸国がよろめきつつ引き入れらた)。(中井久夫『治療文化論』1990年)

個人にとって、強大な帝国の支配下にあるのと、乱世といずれが幸福かは、にわかにいうことができない。さらにいえば、歴史は、四大河流域における文明の勃興をなお善であり、進歩とするが、しかし、生涯をピラミッドの建設や運河の掘削に費やす生活と森の狩猟採集民の生活とのいずれを選ぶかは答えに窮する問題である。「桃源郷」は前者が夢見た後者であろう。(中井久夫「治療文化論再考」1994年)


この狩猟採集民と桃源郷を語る中井久夫は、柄谷行人の交換様式Dの問いに結びつく。


資本=ネーション=国家を越える手がかりは、やはり、遊動性にある。ただし、それは遊牧民的な遊動性ではなく、狩猟採集民的な遊動性である。定住以後に生じた遊動性、つまり、遊牧民、山地人あるいは漂泊民の遊動性は、定住以前にあった遊動性を真に回復するものではない。かえって、それは国家と資本の支配を拡張するものである。〔・・・〕交換様式Dにおいて、何が回帰するのか。定住によって失われた狩猟採集民の遊動性である。それは現に存在するものではない。が、それについて理論的に考えることはできる。(柄谷行人『柳田国男と山人 』2014年)

人類はエデンの園にいたとき、いわば原遊動的な状態にあった。しかし、それは定住化とともに失われ、A・B・Cが支配する社会が形成された。ゆえに、エデンの園に戻ることが目指される。それがDであるといってもよい。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)



柄谷行人の「交換様式」語りの列挙