大前研一が2017年の時点で既にこう言っていたがね、《これからの日本の最大の論点は、少子高齢化で借金を返す人が激減する中、膨張する約1000兆円超の巨大な国家債務にどう対処していくのか、という点に尽きます。》(大前研一「日本が突入するハイパーインフレの世界」2017年) |
今の日本にはもう一つあるんだよな、米国戦争機械の捨て駒化の論点が(参照)。 どちらももうほとんど引き返せない道に入り込んでいるんじゃないかね 実に奇妙なな国民性だな、いやこれが日本人ってものかもしれないが。 何度も繰り返し引用してきたがね、次のセットを。 |
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収) |
……ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。(丸山真男「戦争責任について」1956.11) |
あるいは次のセットを。 |
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
農耕社会の強迫症親和性〔・・・〕彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
ところでこういう写真のセットもあるようだな、
この写真セットに谷底への道が見事に象徴化されてんじゃないかね。
前奏曲としては次のたぐいのセットもあるがね、
今回の事故で明らかになったのは、日本社会の民主主義が脆弱なものであったということです。ぼくたちは問題に声を挙げることができるでしょうか。それとも、このまま黙ったままでいるのか。今から10年たてば、日本が「民主国家」の名前にふさわしい国であったのかどうかが分かるでしょう。こんなに深く日本の民主主義が未熟であったことを感じたことはありませんでした。今起きている危機は、福島原発事故についてだけのことではないのです。私が最も絶望させられたのは、電力会社、政府の役人、政治家、メディア関係者が結託して放射能の危険を隠すために行った「沈黙による陰謀」とも呼ぶべき行為です。去年の3月11日以来、たくさんの嘘が明らかになりました。そしておそらくは、まだこれからも明らかになってゆくでしょう。これらのエリートたちが真実を隠すため陰謀を巡らせていたことが明らかになって、私は動揺しています。ぼくたちは、そんなに騙しやすい国民なのでしょうか?(大江健三郎「僕たちは、そんなに騙しやすい国民でしょうか。」ルモンド紙インタビュー、2012年3月16日) |
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