あまり皮肉を言いたくないんだが、やっぱりこれだな。 |
余この頃東京住民の生活を見るに、彼等は其生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、寧これを喜べるが如き状況なり(永井荷風「断腸亭日乗」1937年8月24日) |
あるいはーー、 |
蓮實重彦:十九世紀の初めのフランスのジャーナリストで、エミール・ド・シラルダンという人が、カルチエラタンの屋根裏部屋の火事のほうが、リスボンの革命よりも、新聞記事としては絶対に読者を喜ばせると言う。(柄谷行人-蓮實重彦対談『闘争のエチカ』1988年) |
ゴダール:いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収) |
さらにはーー、 |
フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです[Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès ! ](ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収) |
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こういったことを言っても無駄なことは充分にわかってるがね、でもたまには言いたくなるよ。 |
◼️蓮實重彦「久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について」(『些事へのこだわり』2024年1月18日) |
なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。 |