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2025年7月21日月曜日

ニーチェ毛嫌いの人のための「ニーチェ雑感」(小林秀雄)

 

ニーチェを毛嫌いする人が多いのはよくわかるよ。古典はなんでもそうだとはいえ、特にニーチェはある程度読み込まないとひどく誤解してしまう。その意味で、小林秀雄の「ニーチェ雑感」の特に次の箇所はニーチェを真に読むための大いなる導きの糸だ。


反道徳とか、反キリストとか、超人とか、ニヒリスムとか、孤独とかいう言葉は、ニイチェの著作から取り上げられ、誤解され、濫用されているが、これらの言葉は、近代における最も禁欲的な思想家の過剰な精神力から生れた言葉だと思えば、誤解の余地はないだろう。彼は妹への手紙で言っている、「自分は生来おとなしい人間だから、自己を喚び覚ますために激しい言葉が必要なのだ」と。ニイチェがまだ八つの時、学校から帰ろうとすると、ひどい雨になった。生徒たちが蜘蛛の仔を散らすように逃げ還る中で、彼は濡れないように帽子を石盤上に置き、ハンケチですっかり包み、土砂降りの中をゆっくり歩いて還って来た。母親がずぶ濡れの態を咎めると、歩調を正して、静かに還るのが学校の規則だ、と答えた。発狂直前のある日、乱暴な馬車屋が、馬を虐待するのに往来で出会い、彼は泣きながら走って、馬の首を抱いた。ちなみに彼はこういうことを言っている、「私は、いつも賑やかさのみに苦しんだ。七歳の時、すでに私は、人間らしい言葉が、決して私に到達しないことを知った」。およそ人生で宗教と道徳くらい賑やかな音を立てるものはない。ニイチェは、キリストという人が賑やかだ、と考えたことは一度もない。(小林秀雄「ニイチェ雑感」1950 年)


ボクはこのアリアドネの糸に導かれてようやくニーチェに入っていけたね、もう大昔の話だが。


小林秀雄の弟子筋の音楽批評家吉田秀和の次の話もこの線上にある、

ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和ーー 『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』(神崎繁)よりの孫引き)


実際、ニーチェはこう書いている、

私の人類愛は、人がどのようなものかに共感することではなく、私がその人に共感することに耐えることにある…私の人類愛は、絶え間ない自己超克である[meine Humanität besteht nicht darin, mitzufühlen, wie der Mensch ist, sondern es auszuhalten, daß ich ihn mitfühle... Meine Humanität ist eine beständige Selbstüberwindung.](ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第8節)


あまりにも同情してしまう自分を自己超克[Selbstüberwindung]したんだ。

わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。つまり、同情の手が一個の偉大な運命、痛手にうめいている孤独、重い罪責をになっているという特権の中へ差しでがましくさしのべられると、かえってそれらのものを破壊してしまいかねないからだ。同情の克服ということを、わたしは高貴な徳の一つに数えている[Die Überwindung des Mitleids rechne ich unter die vornehmen Tugenden: ](ニーチェ『この人を見よ』「なぜわたしはこんなに賢明なのか」第4節、1888年)




そもそもニーチェは自らこう書いている。

書物はまさに、人が手もとにかくまっているものを隠すためにこそ、書かれるのではないか[schreibt man nicht gerade Buecher, um zu verbergen, was man bei sich birgt? ]〔・・・〕

哲学はさらに一つの哲学を隠している。あらゆる見解もまた一つの隠し場であり、あらゆる言葉もまた一つの仮面である[Jede Philosophie verbirgt auch eine Philosophie; jede Meinung ist auch ein Versteck, jedes Wort auch eine Maske.](ニーチェ『善悪の彼岸』289番、1886年)


通常の読み手はこの隠しているものが読めない。学者でも大半はダメだ。詩人じゃないとな。

思考は、思考を強制させるもの、思考に暴力をふるう何かがなければ、成立しない。思考より重要なことは、《思考させる》ものがあるということである。哲学者よりも、詩人が重要である[La pensée n'est rien sans quelque chose qui force à penser, qui fait violence à la pensée. Plus important que la pensée, il y a ce qui « donne à penser» ; plus important que le philosophe, le poète.]

(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」第2版、1970年)


ニーチェは先の文と同様なことを繰り返し言っている。


ひとがものを書く場合、分かってもらいたいというだけでなく、また同様に確かに、分かってもらいたくないのである。およそ誰かが或る書物を難解だと言っても、それは全然非難にならぬ。おそらくそれが著者の意図だったのだーー著者は「猫にも杓子にも」分かってもらいたくなかったのだ。Man will nicht nur verstanden werden, wenn man schreibt, sondern ebenso gewiss auch nicht verstanden werden. Es ist noch ganz und gar kein Einwand gegen ein Buch, wenn irgend Jemand es unverständlich findet: vielleicht gehörte eben dies zur Absicht seines Schreibers, ― er wollte nicht von „irgend Jemand“ verstanden werden.

すべて高貴な精神が自己を伝えようという時には、その聞き手をも選ぶものだ。それを選ぶと同時に、「縁なき衆生」には障壁をめぐらすのである。文体のすべての精緻な法則はそこ起源をもつ。それは同時に遠ざけ距離をつくり、入場を拒むのである。Jeder vornehmere Geist und Geschmack wählt sich, wenn er sich mittheilen will, auch seine Zuhörer; indem er sie wählt, zieht er zugleich gegen „die Anderen“ seine Schranken. Alle feineren Gesetze eines Stils haben da ihren Ursprung: sie halten zugleich ferne, sie schaffen Distanz, sie verbieten „den Eingang,“ (ニーチェ『悦ばしき知』381番、1882年)


学者たちってのは「猫杓子」だろうからな、ーー《学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない[Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: ]》(ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年)



あるいはーー、

結局誰にせよ、何事からも、従って書物からも、自分がすでに知っている以上のものを聞き出すことはできない。出来事に基づいて接近していないものに対しては、人は聞く耳をもたない。ひとつの極端な場合を考えてみよう。ある書物が、人がたびたび経験することができないばかりか、ほんの稀にも経験できないような出来事ばかりを語っているとするーーつまり、その書物が、一連の新しい出来事を言い表わす最初の言葉であるとする。この場合には、全く何も耳にきこえない。そして何もきこえないところには何も存在しない、という聴覚上の錯覚が起こるのである。

Zuletzt kann Niemand aus den Dingen, die Bücher eingerechnet, mehr heraushören, als er bereits weiss. Wofür man vom Erlebnisse her keinen Zugang hat, dafür hat man kein Ohr. Denken wir uns nun einen äussersten Fall, dass ein Buch von lauter Erlebnissen redet, die gänzlich ausserhalb der Möglichkeit einer häufigen oder auch nur seltneren Erfahrung liegen, – dass es die erste Sprache für eine neue Reihe von Erfahrungen ist. In diesem Falle wird einfach Nichts gehört, mit der akustischen Täuschung, dass wo Nichts gehört wird, auch Nichts da ist – .

(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


ーーここでの出来事[ Erlebnisse]とは何か。


人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.](ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)


「常に回帰する」とは永遠回帰のことだよ、

同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


そして強度をもった出来事とはトラウマだ、《出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt ]》(フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 )


つまりニーチェの永遠回帰は基本的にはトラウマの回帰だ、だがこれさえ把握している人はいまだほんの一握りしかいない。


フロイトもサロメの話ーー彼女はフロイトに弟子入りしているーーを聞いて掴んだのかもしれないがね。



私にとって忘れ難いのは、ニーチェが彼の秘密を初めて打ち明けたあの時間だ。あの思想を真理の確証の何ものかとすること…それは彼を口にいえないほど陰鬱にさせるものだった。彼は低い声で、最も深い恐怖をありありと見せながら、その秘密を語った。実際、ニーチェは深く生に悩んでおり、生の永遠回帰の確実性はひどく恐ろしい何ものかを意味したに違いない。永遠回帰の教えの真髄、後にニーチェによって輝かしい理想として構築されたが、それは彼自身のあのような苦痛あふれる生感覚と深いコントラストを持っており、不気味な仮面であることを暗示している。

Unvergeßlich sind mir die Stunden, in denen er ihn mir zuerst, als ein Geheimnis, als Etwas, vor dessen Bewahrheitung ... ihm unsagbar graue, anvertraut hat: nur mit leiser Stimme und mit allen Zeichen des tiefsten Entsetzens sprach er davon. Und er litt in der Tat so tief am Leben, daß die Gewißheit der ewigen Lebenswiederkehr für ihn etwas Grauen-volles haben mußte. Die Quintessenz der Wiederkunftslehre, die strahlende Lebensapotheose, welche Nietzsche nachmals aufstellte, bildet einen so tiefen Gegensatz zu seiner eigenen qualvollen Lebensempfindung, daß sie uns anmutet wie eine unheimliche Maske.

(ルー・アンドレアス・サロメ、Lou Andreas-Salomé Friedrich Nietzsche in seinen Werken, 1894)




不気味な仮面[unheimliche Maske]とあるが、ニーチェとフロイトのこの「不気味なもの」用語の使用法は永遠回帰は不気味なものの回帰(欲動の回帰)」を参照。


で、ニーチェの《永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)でありーー実際、ニーチェの遺稿で永遠回帰と力への意志を等置している。先のリンクの末尾近くを見よーー、そして力への意志が欲動自体であり、トラウマであるのも同様。


次の図はニーチェ簡略版。



で、フロイト版。



一般の人には、力への意志とか不気味なものとか欲動(駆り立てる力)とか言わなくてトラウマでいいんじゃないかな。


外傷神経症あるいはPTSDを勉強した人ならみな知っているように、トラウマは永遠回帰するものだ。


以上、小林秀雄(そしてルー・アンドレアス・サロメ)の助けを通して読めば、巷間の通念とはまったく違ったニーチェが見えてくる。小林秀雄とはそれくらい偉大な批評家だよ。


彼(小林秀雄)の批評の「飛躍的な高さ」は、やはり、ヴァレリー、ベルクソン、アランを読むこと、そしてそれらを異種交配してしまうところにあった。公平にいって、彼の読みは抜群であったばかりでなく、同時代の欧米の批評家に比べても優れているといってよい。今日われわれが小林秀雄の批評の古さをいうとしたら、それなりの覚悟がいる。たとえば、サルトル、カミュ、メルロ=ポンティの三人組にいかれた連中が、いま読むに耐えるテクストを残しているか。あるいは、フーコー、ドゥルーズ、デリダの新三人組を、小林秀雄がかつて読んだほどの水準で読みえているか。なにより、それが作品たりえているか。そう問えば、問題ははっきりするだろう。(柄谷行人「交通について」――中上健次との共著、『小林秀雄をこえて』所収)