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2025年7月6日日曜日

どうだい、コロッとこないかい?

 

そうか、イスラエルの駐英大使はとってもカワイイ顔してんだな。


こんな女性にカネくれると持ちかけられたら、男ならいっそうコロっとくるよな。


しかし内務大臣のイヴェット・クーパーはスターマー等よりたくさん貰ってるんだな。



つまり鍵は言論統制ってことだな



いまではほとんど皆釣られるんだよ、世界中ね。


「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生まれながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生まれなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば、それほど巧妙なものじゃない…ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、べつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」(トルストイ『アンナ・カレーニナ』)




ボクは高校時代から大学時代にかけてアラン(Alain)ーーエミール=オーギュスト・シャルティエ(Émile-Auguste Chartier)の筆名ーーのファンだったんだけど、《ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだ》というのは、半世紀経っても覚えているね。


徳ということばは、まずそれ自身おどろくべき曖昧さをふくんでいる。日常のことばづかいにおいてもそうだ。植物の徳とはなにかは、だれでもこれを理解できる。それは植物に附された有効性のことで、これはけっして欺かず、けっして務めをおこたらず、確実にひとがそこに見出しうるものである。徳とは、これをいかように解そうともつねに力であることはかわらない。他方、徳とはつねに断念である。この矛盾は勇気のない精神の持主をなやます。まったく反対に、この矛盾は、語勢のためにすぎないときでも、まさしく人の個々とを刺激し、目ざめさせ、挑発すべきものなのだ。徳とは、たしかに無力さゆえの断念ではなく、むしろ力ゆえの断念である。もし私が気狂いじみた怒りゆえに勇気があるのなら、それは徳ではない。もし私が卑怯さからして断念するならば、それはすこしも徳ではない。徳とはなにかといえば、自己の自己に対する力である。なんの役にも立たぬのについに罵りかえしてしまって、これを得意におもうものはない。肉屋の店先で、犬がやるのを見かけるように、快楽をまえにしてハアハアあえいで、これを得意におもうものはない。自分のかせぐお金によって自分の意見を規制するのを得意におもうものはだれもいない。自分の主人にへつらうことの好きなものはだれもない。自分の考えるところをいうこと、そして、まずもって自分の考えるところ、いうところを、そのため失敗をまねくかも知れないとおもわれるその状況のなかで、吟味すること、これが徳である。

古人は四つの徳をおしえた。すなわち、彼らは自己把持の四つの敵をみとめていたということだ。もっともおそるべき敵は恐怖である。というのは、恐怖は行動も思想もゆがめてしまうから。それゆえ、勇気こそ徳の第一の面、もっとも尊敬される面となる。もし正義がつねに勇気の相のもとにあらわれるならば、正義はなお大きいものとなろう。ある人に対して勇敢にいどみつつ正義を体することは、自己の自己に対する正義を体することよりもやさしい。それならば、勇気に対するこの熱情はどこから来るのか。おそらく、勇気のあかしということには論議の余地がないからである。問題は危険な行動をおこなうこと、しかも、躊躇によってであれ、軽率によってであれ、けっして挫かれてしまうことなしにそれをやることだ。そうしたものは、顔や手や声でわかる。それゆえにこそ、いかなる人に対しても勇気のあかしを示すことがもとめられていいこと、またこの条件によってしかなにびとも尊敬されないということが、なん世紀にもわたって人びとにみとめられて来たわけだ。こんにち決闘や挑戦はいささか忘れられている。もっとも、すっかり忘れられているわけではない。むしろ、勇気のあかしということは依然として人びとのうえに君臨している。戦いへの招きはこばみがたいものだが、それもこうした理由によるのである。


人間のいま一つの敵、それは快楽だ。かくして、節制ということが勇気の妹ということになる。この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。こういうわけで、この節制という徳は、ややもするといかがわしく思われる。自己の自己に対するばあいでもそうだ。というのは、およそ金づかいというもののほうが、いかにも勇気ありげにみえるものなのだから。それゆえに、人はこのヴェールをかむった徳、節制のまえではためらう。


富というものはわれわれをつよくとらえる。われわれはこれを羨望し、かくして奴隷になってしまう。われわれが富をもつとなると、富はさらにいっそうよくわれわれをとらえる。それゆえ、われわれはなにかにつけかせぎたくなる。いいかえれば、より少なくあたえたり、より多く受けとったりしたくなる。そして、この盗みたいという魅力にわれわれが抗しうる徳、あるいは内なる力とは、すなわち正義である。警官や裁判官による強制的な正義ではなく、自由な正義、自己に対する正義、だれもこれについてはなにも知らぬということを前提としての正義である。ところで、この徳は不確実さによってわれわれを疲れさす。というのはわれわれは、自分が四方八方から盗まれているような気がするし、またしばしば自分が、みずから欲せずに、しかも万人にほめられながら、盗人になっているような気がするから。ふつうの人は自分の正義をあかすよりも、その勇気をあかすのにいっそう注意ぶかいと、私がいったのはこのゆえである。このことはつぎの逆説をいくぶん説明してくれる。すなわち、ひとは自分の金よりも自分の命のほうをいっそう無造作にあたえてしまうものだと。


この三つの徳を考察してみると、これらのものが第四番目の徳、すなわち叡知によってもたらされた影のようなものだということに気づく。というのは、問題なのはつねに、欺かれぬことであり、自分の明晰な精神を保持することなのだから。そして、情念の第一の作用とは、われわれを盲目にすることである。それゆえ、第一の徳とは、よく判断することであり、よく判別することであり、自分になにがもとめられているか、なにが約束されているか、自分にとってなにが重要なのか、自分はなにを欲し、なにを欲しないのかを知ることである。そして、あきらかなことだが、われわれを連れ去ろうとする人たちは、はなばなしくもそうぞうしい外観の花火により、賞讃により、侮辱により、皮肉により、恥辱により、威嚇によって、われわれの注意をおびえさせ、疲れさせ、がっかりさせることからまずはじめる。じつは、徳という名のもと、つねに目ざされているものは、判断力なのだ。徳は一つしかなく、自己自身をまえにした精神の自由な態度こそそれである。もろもろの徳のかげに姿をみせているのは、うまいことばでいえば、自己尊重ということである。有徳の人とは、自分がいわば精神の捧持者であると知り、またこの高い属性に対しみずから責任あると知る人のことである。それゆえ、賢者はただ自己をしか信ぜず、自己についてはただ自己の精神をしか信じない。かくして彼はときに、徳とはなにものでもないとさえいうにいたる。(アラン『人生語録集』井沢義雄・杉本秀太郎訳、1978年)


もっともアランにはフロイト・ラカン的な無意識がないので、ラカンは皮肉っている、《チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン[Alain dans son nuage de craie]》(ラカン「メルロポンティ追悼」AE176 )と。またアランはオプティミズム人だがーー《私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。》(アラン「オプチミスム」)ーー、サルトルはナチスに対してはそれは機能しないと言っている。