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2025年7月25日金曜日

平等社会だからこそ差別が猖獗する

 

一般的には平等社会だからこそ差別が猖獗するのであり、身分社会では少なくとも階級間の差別は起こりにくい。

柄谷行人) 欲望とは他人の欲望だ、 つまり他人に承認されたい欲望だというヘーゲルの考えはーージラールはそれを受けついでいるのですがーー、 この他人が自分と同質でなければ成立しない。他人が「他者」であるならば、蓮實さんがいった言葉でいえば「絶対的他者」であるならば、それはありえないはずなのです。いいかえれば、欲望の競合現象が生じるところでは、 「他者」は不在です。

文字通り身分社会であれば、 このような欲望や競合はありえないでしょう。 もし 「消費社会」において、そのような競合現象が露呈してくるとすれば、それは、そこにおいて均質化が生じているということを意味する。 それは、 たとえば現在の小学校や中学校の「いじめ」を例にとっても明らかです。ここでは、異質な者がスケープゴートになる。しかし、本当に異質なのではないのです。異質なものなどないからこそ、異質性が見つけられねばならないのですね、 だから、 いじめている者も、 ふっと気づくといじめられている側に立っている。 この恣意性は、ある意味ですごい。しかし、これこそ共同体の特徴ですね。マスメディア的な領域は都市ではなく、完全に「村」になってします。しかし、それは、外部には通用しないのです。つまり、 「他者」には通用しない。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)


誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)



もっともこれは日本というムラ的平等社会の現象だけではない。西洋社会でもフランス革命以後、平等化が進み、特に1850年前後からそれが際立ってきた(ここで「平等」というとき、経済的な平等ではなく形式的的な平等であることに注意)。


蓮實重彦は学校制度に関して次のように記している。



問題は、十九世紀という時代がその中葉にかけて、原理的には誰もが通過せざるをえない儀式的な場として、教室と呼ばれる権力空間を発明したということにある。〔・・・〕ここでの関心は、誰もが同じ資格でそこに存在していながら、その複数の平等な視線同士のあいだに力学的な葛藤が生じ、きまって優位と劣性という関係がその制度的空間を分割することになるという点だ。つまり、義務教育が制度として確立していらい、教室とは、「多数派が常に正しく、少数派が常に誤っている」という権力関係によって不可視の分割が実践される場の典型として生きられることになるのである。人が、差別をあからさまに学ぶのは、教室にほかならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅤ 教室と呼ばれる儀式空間」1988年)

教室という権力空間を占有する「多数派」が正しいのは、彼らの側に真理があるからではなく、もっぱら、その連中が、同じ一つの物語を共有しているからにすぎない。そして、その物語の中で、新入生は、常に正しからぬ「異物」という機能を演じなければならない。「少数派」が常に誤っているのは説話論的な機能としてそうなのであり、真理と誤謬、善と悪といった倫理的な基準とは何の関係もないことである。同じ言葉を共有しえないもののみが、正しくない。そしてこの事実は、教室という儀式空間がそうであるように、文学が十九世紀の中葉になしとげえた歴史的な発見とるいうべきものだ。


あたかもそれを証拠だてるかのように、フランス語は、それまで存在していなかったある単語をこの時期に捏造する。それは、新入生いじめ  bizutage  の一語である。多くの語彙論的な文献は、その一語が一八三五年を境として記号の圏域に流通し始めることを証言している。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』「ⅩⅥ 説話論的な少数者に何が可能か」1988年)



我々はみな学校にて差別を学ぶのである。もちろん学校だけではないが。



非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。〔・・・〕個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。 差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがない。差別された者、抑圧されている者が差別者になる機微の一つでもある。〔・・・〕


些細な特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。これは周囲の差別意識に訴える力がある。何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。(中井久夫「いじめの政治学」1997年 『アリアドネからの糸』所収 )



「権力」とあるが、権力と権威の相違を区別しなければならない。権威はむしろ自由を生む、ーー《権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する[Authority implies an obedience in which men retain their freedom]》(ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年)



重要なことは、権力と権威[power and authority]の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。

 It is important to try to understand the difference between power and authority. From a lacanian point of view, power always concerns a dual relationship, meaning: me or the other . This supposedly equal relationship amounts to a bitter competition in which one of the two has to win over the other. Authority on the other hand, always concerns a triangular relationship, meaning me and the other through the intermediary of a third party.

(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Social bond and authority, 1999)


三者関係の理解に端的に現われているものは、その文脈性 contextuality である。三者関係においては、事態はつねに相対的であり、三角測量に似て、他の二者との関係において定まる。これが三者関係の文脈依存性である。これに対して二者関係においては、一方が正しければ他方は誤っている。一方が善であれば他方は悪である。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

二項論理の場では、私か他者のどちらかの選択肢しかない。したがってエディプス的状態(三項関係)が象徴的に機能していない事実を示している。a dualistic logic where there is a choice of either me or the other, and thus points to the fact that the oedipal situation has not been worked through symbolically. (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex 、2009)


この第三項が失われたのが現在の社会である。


今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕

私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…)  nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)


学園紛争を契機にしたエディプス的父の失墜後、世界はどう変わり21世紀はそれが極まっているのは、誰もが知っている筈のことだ。

父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)

エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)

レイシズム勃興の予言[prophétiser la montée du racisme](Lacan, AE534, 1973)


あるいは「恥なき時代」ーー、

もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[ plus vous serez ignoble mieux ça ira] (Lacan, S17, 17 Juin 1970)

文化は恥の設置に結びついている[la civilisation a partie liée avec l'instauration de la honte.]〔・・・〕ラカンが『精神分析の裏面』(1970年)の最後の講義で述べた「もはや恥はない」という診断。これは次のように翻案できる。私たちは、恥を運ぶものとしての大他者の眼差しの消失の時代にあると[au diagnostic de Lacan qui figure dans cette dernière leçon du Séminaire de L'envers : «Il n'y a plus de honte». Cela se traduit par ceci : nous sommes à l'époque d'une éclipse du regard de l'Autre comme porteur de la honte.](J.-A. MILLER, Note sur la honte, 2003年)


大他者の眼差しとはもちろんエディプス的父の眼差し、あるいは父の名の眼差しのことである、ーー《フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien]》(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)


もっともラカンは、支配の論理に陥りがちな父の名の復権をいっているわけではない、だが三者関係を支える父の機能としての「権威」は必ず必要である。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで[le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.](Lacan, S23, 13 Avril 1976)




現在の西側社会ではこの父の機能さえない。


ノーベル文学賞作家ドリス・レッシングは自伝で次のように言っている。


子供たちは、常にいじめっ子だったし、今後もそれが続くだろう。問題は私たちの子供が悪いということにあるのではそれほどない。問題は大人や教師たちが今ではもはやいじめを取り扱いえないことにある。

Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore. (Doris Lessing, Under My Skin: Volume I of my Autobiography, 1994)


これが父の機能の喪失の時代のいじめ猖獗現象の典型的事例である。それはレイシズム等にも表れているのは周知の通り。

………………


※附記


なおフロイトは平等社会の至高の形態のひとつであるだろう「コミュニズム的理想」を次のように批判している。


私はコミュニズムを経済学的観点から批判するつもりはない。…しかし私にも、コミュニズム体制の心理的前提がなんの根拠もない錯覚[Illusion]であることを見抜くことはできる。


私有財産制度を廃止すれば、人間の攻撃欲[Aggressionslust] からその武器の一つを奪うことにはなる。それは、有力な武器にはちがいないが、一番有力な武器でないこともまた確かなのだ。私有財産がなくなったとしても、攻撃性が自分の目的のために悪用する力とか勢力とかの相違はもとのままで、攻撃性の本質そのものも変わっていない。

攻撃性は、私有財産によって生み出されたものではなく、私有財産などはまたごく貧弱だった原始時代すでにほとんど無制限の猛威を振るっていたのであって、私有財産がその原始的な肛門形態を放棄するかしないかに早くも幼児の心に現われ、人間同士のあらゆる親愛的結びつき・愛の結びつき[zärtlichen und Liebesbeziehungen] の基礎を形づくる。唯一の例外は、おそらく男児に対する母親の関係だけだろう。


物的な財産にたいする個人の権利を除去しても、性関係[sexuellen Beziehungen] の特権は相変わらず残るわけで、この特権こそは、その他の点では平等な人間同士のあいだの一番強い嫉妬と一番激しい敵意の源泉[Quelle der stärksten Mißgunst und der heftigsten Feindseligkeit] にならざるをえないのである。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)

注)コミュニズムのような運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能[körperliche Ausstattung und geistige Begabung]をあたえることによって種々の不正 [Ungerechtigkeiten] を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)


フロイトの社会的正義についての捉え方は次の通り。

社会の中に集合精神[esprit de corps]その他の形で働いているものがあるが、これは根源的な嫉妬[ursprünglichen Neid]から発していることは否定しがたい。 だれも出しゃばろうとしてはならないし、だれもがおなじであり、おなじものをもたなくてはならない。社会的正義[Soziale Gerechtigkeit]の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、 おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等要求[Gleichheitsforderung ]こそ社会的良心[sozialen Gewissens]と義務感 [Pflichtgefühls ]の根源である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第9章、1921年)


これは既にニーチェにもある。

性欲動の発展としての同情と人類愛。復讐欲動の発展としての正義[Mitleid und Liebe zur Menschheit als Entwicklung des Geschlechtstriebes. Gerechtigkeit als Entwicklung des Rachetriebes. ](ニーチェ「力への意志」遺稿、1882 - Frühjahr 1887 )


もうひとつ、これは比較的よく知られているだろうが、類似した民族間であるからこそ起こりやすい「些細な差異のナルシシズム」による攻撃欲動の発散をめぐる箇所を掲げておこう。


人間性の不滅の特徴である攻撃性向…人間にとってこの自分の攻撃性向を断念するのが容易でないことは明らかである。そんなことをすれば、どうにも気持が落ち着かないのだ。比較的小さな文化圏には、自分の文化圏に属さない人間を敵視することでこの攻撃欲動を発散できるという利点があるが、この利点はなかなか重要である。攻撃の対象になりうる他人が残存しているかぎり、 かなりの数の人間を相互に愛で結びつけることはつねに可能だ。

まえに私は、スペイン人とポルトガル人、北ドイツ人と南ドイツ人、イギリス人とスコットランド人など、隣同士であり、その他の点でもたがいに類似した人間集団に限ってかえってたがいに敵視しあい蔑視しあうという現象を研究したことがある。私はこの現象を「些細な差異のナルシシズム」»Narzißmus der kleinen Differenzen«と呼んだが、この名称そのものはこの現象の解明には大して役に立たない。ところでこの現象の中には、それによってその人間集団の構成員相互の団結が容易になるという、攻撃性向の安易かつ比較的無害な充足が認められる。

世界中にちらばっているユダヤ民族は、このようにして、自分たちが住んでいる国々の文化にたいして顕著な貢献をしてきた。ところが残念なことに、あれほどたくさんのユダヤ人虐殺が行なわれたにもかかわらず、中世という時代は、キリスト教徒たちにとって、それ以前の時代より平和でも安全でもなかった。 使徒パウロが普遍的な人類愛を自分のキリスト教教会の基礎にした以上、キリスト教徒以外の人間にたいする極度の不寛容はその必然の結果だった。国家の基礎を愛に求めなかったローマは、宗教は国家のものであり国家は宗教びたしになっていたにもかかわらず、宗教的不寛容とは無縁に終わった。

ゲルマン人による世界征服の野望がその一環としてユダヤ人排斥を呼号したのも、理解に苦しむような偶然ではなかったし、ロシアにおいて新しい共産主義文化を建設しようという試みがブルジョアジー迫害によって心理的に支えられていることも、充分理解できる現象だ。ただちょっと心配なのは、ソヴィエトでブルジョアジーが根こそぎにされたあと果して何が起こるだろうかという点である。

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)


集団に感情結合(愛の結びつき)をもたらすためにはこの外国人排斥は重要な要素のひとつである。直近でも日本のさる政党がこのメカニズムを活用しているように見えた。なお「些細な差異のナルシシズム」のナルシシズムは事実上、ナショナリズムである[参照]。