昨日の柴田英里さんの一連のツイートは勉強になるよ、
東インドのある地方では、思春期以前の結婚や同棲生活が、いまでも珍しくない。八十歳を越したレプチャ族の長老たちは八歳の少女と交接するが、誰もべつだん奇異とは感じないらしい。ダンテがベアトリーチェと熱烈な恋をしたとき、彼女はまだ九歳の才気あふれる少女だった。深紅の衣裳や宝石で身を飾り、薄化粧をほどこした愛らしい少女だった。これは一二七四年にフィレンツェでひらかれた楽しい五月のある内輪の宴での出来事だ。またペトラルカがロリーンに熱狂的な恋をしたとき、彼女は花粉を吹きちらす風のなかを走りまわる十二歳の金髪のニンフェットで、ヴォクルーズの連丘から眺めた姿は、さながら美しい平原に舞い踊る一輪の花だった。(ナボコフ『ロリータ』1955年) |
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最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案〔・・・〕。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』2006年) |
ーーと引用したら、別の文章群が芋蔓式に出て来る。5年ぐらい前まではしばしば掲げていたものだが、最近ご無沙汰しているので、この機会にいくつか再掲しておこう。
幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それは強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。 少なくとも標準的フェミニズムにとっては、強姦が外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、強姦されたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは男性の幻想であるか、もしくは、その女性の父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、強姦の白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは――女性は強姦されることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない……。 このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされていることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかしフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。 |
このことから得られる現実的な結論はこうだ――(一部の)女性は実際に強姦されることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。 ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。 主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。 (注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。) |
結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳) |
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ある種の女たちは、セックスを強制されるファンタジーを抱く。一見したところ、レイプファンタジーというのは、まったく筋が通らない。どうしてそんなことを幻想(ファンタジー)しなくてはいけないのだろう? 実生活ではトラウマ的な、不快で命にかかわるとさえいえることを。 でもより念入りに調べてみると、こういったファンタジーは稀なわけではない。… ファンタジーというのは私たちの想像力のぎりぎりの限界を、なんの危険もなしに安全に「経験」させてくれる。それは、ある種の人たちにとっての、無理強いされたセックスファンタジーも含まれる。ファンタジーなら全ては許され、なにも悪いことはない。 とはいえレイプファンタジーは悩ましい問題にはちがいない。そんなファンタジーを抱く大半の女たちは異常だとか倒錯しているとかの思いを振り払えないだろうから。 |
1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの9つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に1回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうから。… 直近のレポート(Bivona, J. and J. Critelli. "The Nature of Women's Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents," Journal of Sex Research ,2009) では、ノーステキサス大学の心理学者が355人の女学生に質問している。どのくらいの頻度で、男もしくは女に、制圧され/強制され/レイプされる[overpowered, forced, raped]、つまりあなたの意志に反して、オーラル/ヴァギナ/アナルセックスをする、――そういったファンタジーを抱くのかという問いだ。 62パーセントの女学生が、少なくとも1度は、そういったファンタジーを抱いたことがあると言っている。だが、その問いで使われた用語によって返答はまちまちだ。「男に制圧される overpowered」と問えば、52パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。その状況というのは、女たちの読むロマンスフィクションに最も典型的に表現されているものだ。だがもし用語を「レイプ」としたら、わずか32パーセントがそのファンタジーを抱いたころがあると言う。これは以前のレポートと似たり寄ったりだ。 |
レイプファンタジーの頻度はまちまちだ。回答者の38パーセントは1度もないと。25パーセントは1年に1度以下。13パーセントは1年に数度抱くと。11パーセントは月に1度、8パーセントは週に1度。5パーセントは週に数度(応答者の21パーセントは現実の生活で性的暴行を受けていると答えている)。… レイプやレイプに近似したファンタジーは、ロマンス小説の主流で、フィクションの永続的なベストセラーのカテゴリーのひとつだ。これらの本はしばしば"bodice-rippers"(主人公が性的に暴行される恋愛小説)と呼ばれている、タイトルは“Love's Sweet Savage Fury”の類だ。すくなくとも「強制」を意味するタイトルが多い。そこでは、ハンサムな男がヒロインの魅力に参ってしまって理性を全く失い、女を是非ものにしなくちゃならなくなる、ヒロインが拒絶してさえだ、――女は最初は拒絶する、でもそれから結局は降伏、欲望にとろけ込み、十全な満足という結末になる。… レイプファンタジーとは何を意味するのか? 私の見解では、ほかのファンタジーとの違いは何にもない。悪いものでもないし倒錯的でもない。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものだ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からない。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておく。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものだ。あなたはどう思う?(Michael Castleman M.A., Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? 2010) |
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ファンタジー(幻想)とは、象徴化に抵抗する現実界(享楽)のある部分に意味を与える試みである。(Paul Verhaeghe, TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN、1998) |
享楽の本質はマゾヒズムである[La jouissance est masochiste dans son fond](Lacan, S16, 15 Janvier 1969) |
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女性の場合、意識的であろうと無意識的であろうと、幻想は、愛の対象の選択よりも享楽の場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりする être battue, violée ことを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だ être une autre femme,と想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいない être ailleurs, absente と想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。(ジャック=アラン・ミレール On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " ,2010) |
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古典的に観察される男性の幻想は、性交中に別の女を幻想することである。他方、私が見出した女性の幻想は、もっと複雑で理解し難いものだが、性交中に別の男を幻想することではない。そうではなく、その性交最中の男が彼女自身ではなく別の女とヤッテいることを幻想する。その患者にとって、この幻想がオーガスムに達するために必要不可欠だった。… この幻想はとても深く隠されている。男・彼女の男・彼女の夫は、それについて何も知らない。彼は毎晩別の女とヤッテいるのを知らない…これがラカンが指摘したヒステリー的無言劇である。その幻想ーー同時にそのように幻想することについて最も隠蔽されている幻想は(女性的)主体のごく普通の態度のなかに観察しうるがーーそれを位置付けるのは容易ではない。(J.-A. Miller, The Axiom of the Fantasm) |
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実に、女性たちが頻繁に告白する典型的な幻想がある。つまり女性たちは、享楽を獲得するために、男性の虐待の対象として自らを表象する。剥き出しにされ、打たれ、貶められること。あたかも真正な女を感じるために必要不可欠であるかのようにして。この「自らを苦しめること」は望んで遠回りの道を取る。たとえば美しくあれという要請は、しばしば美学化されたマゾヒズムの仮面にすぎない。 |
Il y a bien à rendre compte des fantasmes typiques que des femmes confessent communément, à savoir que pour atteindre à la jouissance, elles se représentent en elles-mêmes comme l'objet de la persécution masculine – dépouillées, battues, déchues – comme si c'était là la condition sine qua non pour se sentir authentiquement femme. Ce “se faire souffrir” emprunte volontiers des chemins détournés. Par exemple, l'impératif d'être belle n'est souvent que le masque du masochisme esthétisé. (J.-A. Miller, Mèrefemme, 2015) |
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※附記
欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825, 1960) |
(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme](Lacan, AE207, 1966) |
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フロイト用語の願望[Wunsch]をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016) |
幻想生活と満たされぬ願望で支えられているイリュージョン[Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年) |
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欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕 自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
じつは、この世界は思考を支える幻想でしかない。それもひとつの「現実」には違いないかもしれないが、現実界の顰め面[grimace du réel]として理解されるべき現実である[alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.](Lacan, Télévision, AE512、Noël 1973) |
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
幻想は現実界のスクリーン(覆い)だけではない。同時に現実界の窓である。幻想には二つの価値がある。スクリーンと窓である[le fantasme n'est pas seulement écran, écran du réel. Il est en même temps fenêtre sur le réel. Et il y a là deux valeurs du fantasme … entre l'écran et la fenêtre](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/2/2011) |
(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環している。[voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.](J.-A.Miller, L’image reine , 2016) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](J.-A.Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
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欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。 Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年) |
無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第1論文, 1905年) |
マゾヒストは、小さな、寄る辺ない、依存した子供として取り扱われることを欲している[der Masochist wie ein kleines, hilfloses und abhängiges Kind behandelt werden will.](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年) |
マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
男女の関係が深くなると、自分の中の女性が目覚めてきます。女と向かい合うと、向こうが男で、こちらの前世は女として関係があったという感じが出てくるのです。それなくして、色気というのは生まれるものでしょうか。(古井由吉『人生の色気』2009年) |
大体、文学は古今東西、本当の意味でのマザコンのものだと思うんですよ。マザコンがないと文学は成り立たない。それは大地母神と言ったり、聖母だとかいうようなものの、女が母に通じていかないと、色気が出ないんですよね。(古井由吉「文芸思潮」2010 初夏) |
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最初に母への固着がある[Zunächst die Mutterfixierung ](フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に関する二、三の神経症的機制について』1922年) |
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おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
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トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年) |
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幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年) |
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出来事がトラウマ的性質を獲得するのは唯一、量的要因の結果としてのみである[das Erlebnis den traumatischen Charakter nur infolge eines quantitativen Faktors erwirbt] (フロイト『モーセと一神教』3.1.3 、1939年 ) |
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頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。 小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年) |