このブログを検索

2025年9月1日月曜日

スカートあるいはミニスカをめぐって

 

スカート言説については、私は最近の話はほとんど知らないが、以下はかつて収集して、引き出しの奥にしまってあったいくつかを抽出したものである。

………………


スカートのいよよ短し秋のかぜ

スカートの内またねらふ藪蚊哉


ーー『断腸亭日乗昭和十九年甲申歳 荷風散人年六十有六 九月初七


………………


たえずまくれるスカートのなかの鱗で飾られた脚


ーー吉岡実「水のもりあがり」


悲劇の少女にはふりむく真の正面がない

水色のスカートの腰をよじって

ねぐらへ鳥の飛ぶのを仰ぎつづける


ーー吉岡実「フォーサイド家の猫」



ピンポン球をスカートのなかへ

少女たちは隠したままだ


「ただ この子の花弁がもうちょっと

まくれ上がっていたら いうことはないんだがね」


ーー吉岡実「不思議な国のアリス」


人々の妄想の鏡のなかですでにアリスの靴や靴下そして下着まで濡れているんだ


ーー吉岡実「人工花園」 






赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ


ーー谷川俊太郎「素足」『女に』所収、1991年




夕暮れにひとりきりになって立つ女の子の、その背後に男の子が忍び足でまわり、いきなりスカートの下に手を入れて、下ばきを膝までおろしてしまう。女の子はそれにしてはたじろかず、なにか遠くへ笑っているような顔を振り向けてから、腰をまるく屈めて下ばきをなおし、何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る。(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』2017年)




暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっていたのを、僕は立て直そうとした。〔・・・〕

炎の起こったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた。マニ教の秘儀ではないが、切磋琢磨する性交をつうじて、生ぐさい肉体に属するものは、根こそぎアンクル・サムに移行し、まり恵さんには精神の属性のみが残ったようだ……


もっともまり恵さんは、僕がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をするかわりに、あらためて疲れと憂いにみちているが、ベティさん式の派手な顔に微笑を浮べ、かならずしも精神プロパーではない提案をした。さりとて肉体プロパーでもなかったはずだが……


ーー今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?


――……ずっと若い頃に、かなり直接的に誘われながらヤラなかったことが、二、三人についてあったんだね。後からずっと悔やんだものだから、ある時から、ともかくヤルということにした時期があったけれども…… いまはヤッテも・ヤラなくても、それぞれに懐かしさがあって、ふたつはそうたいしたちがいじゃないと、回想する年齢だね。


ーーつまりヤラなくていいわけね。……私も今夜のことを、懐かしく思い出すと思うわ、ヤッテも、ヤラなくても、とまり恵さんはむしろホッとして様子を示していった。(大江健三郎『人生の親戚』1989年)


ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る…(ソレルス『女たち』原著1983年、鈴木創士訳)







時刻は遅い午後、といっても陽が落ちるにはまだ遠く、燦々と輝いていた陽光がその盛りをすぎ、どれほどともわからぬ時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていったことはぼんやりと意識にのぼっているのだが、正確な時刻となると見当もつかない晴れた日の昼すぎ、まるで部屋の外にはなにも存在せず、ただこの室内だけが世界のすべてであるかのようだ。まるで眼につかぬほどゆっくりと、だが着実に翳ってゆく陽射しが、長椅子の肘掛や背凭せ、テーブルの縁、またあれら少女たちのスカートや剥き出しになった下着の上に落ちかかり、それぞれの粒子の物質的な手触りを際立たせながら優しい白さで輝き出させ、穏やかに暖めている。〔・・・〕


まるで浴槽の熱い湯の中に浸りこむようにして、少女は自己の内部の充足のなかに浸りこむ。甘美な自己放棄。視線がうつろになる。もうわたしは何も見ていない。眼をつむる。猫のように、うっとりと伸びをし、軀を丸める。だが、――だがまさにその瞬間、ふと軀から溢れ出すものがある。何かが、足りないような気がするのだ。苛立ちと呼ぶにはあまりに甘ったるく熱っぽい、この胸苦しいやるせなさ。むずかゆさ。これはいったい何なのか。何もかもが満ち足りていたはずなのに、今は、しきりと何かが不足しているように思われてならない。何かが欲しい。われしらず溜息が漏れる。けれども、わたしの息はどうしてこんない熱いのだろう。このせつない欠乏感は決して嫌悪をそそる種類のものではない。むしろ快いとさえ言っていいような、奇妙に甘美なやるせなさ。〔・・・〕少女は眠りの中に閉じてゆきながら、しかも同時に自分を世界に向かって押し広げてみずにはいられない。脚と脚とがわれしらず離れてくる。しだいに頭の上へとあがってゆき、頭部を抱えこんで自分を内へ閉ざそうとする両腕のやるせない動きそれ自体が、そのまま、腕の付け根の柔らかな腋窩を思いきり開ききって外へさらけ出すことになる。〔・・・〕


そして、目に見えないほど細かな粒子として、しかしくまなく全身から、じっとりと滲み出してくる夢を吸いとっているブラウスと下着の、決して純白というわけではない白さの何とすばらしいことだろう。この汚れた白さの何という輝き、捲くれ上がったスカートの下のシュミーズの縁取りのレースのよじれと縮み、股間を覆う下着によった襞。そして、折り曲げた左足によってかたちづくられ、この股間の白いよじれた襞をのぞかせている三角形と照応するもう一つの、逆向きの三角形、襟元のブラウスの下からのぞいている小さな三角形の、何という蠱惑。顔を横に捩っているために筋肉の腱がくっきりと浮かび上がっている首筋の真下に、強く打たれた句読点のように輝いているこの小さな白い三角形の染みこそ、少女の夢がそこから発散してくる負の起源、またそこへと収斂してゆく虚の焦点であるかのようだ。夢想に軀を預け背を後ろに倒しながら、しかし完全な自己放棄には至らず、背筋をわずかにこわばらせ、不安定な角度で身を支えているこの緊張した姿勢のうちに、開くことと閉じることとの官能的な共存が生きられている。その微熱を帯びた緊張のただなかで滲み出した夢の粒子は、あたり一面に拡散して空気中に漂い、椅子やテーブルや水差しや猫や猫がなめているミルクと親しく交流し合う。……(松浦寿輝『官能の哲学』「インテルメッツォ――バルテュスの絵をめぐる」2001年)




父親は話はこれから妙境にはいるのだと言ひ直し、娘を肘で小突いて見せたが、娘はわかつたわよ、あのことでせうと答へ、例の膝の頭から少しづつスカートに時間を置いて、上の方にずらせて行つた。上の方には十四歳の膝がきよらかな瞳をぱちくりやつて、あらはれた。見物人は一樣に自分の狼狽の氣色を見せまいとして、却つてあをざめた顏色になつた。それはさういふ處で見てはならないものであつて、見た者は一旦それを見たことによつて見ない以前にまで立ち還らなければならないものであつた。そこにまごついて收拾出來ない氣分の混亂があつた。娘の手はスカートを放さずにもつと上の方にまで、それをずり上げる氣はいを見せ、見物人はいま一息といふところで持前の横着な心を取り戻したのである。いまの先に味つた見てはならないものである氣配のきびしさはもう見えなかつた。見てやれ、このちんぴらのそれが何であらうと見てやれといふ圖太い氣が募り出して來た。娘はうたひ出した。夏草は生ひ、橋はかくれた、と、ただそれだけを何度も繰りかへしてゐた。そんな歌よりもつとスカートをあげろ、じらすな、おあづけするなんて、こつとら犬ぢやねえぞと或る者は少し醉つて呶鳴り、娘は顏をあからめスカートをずつと下ろして、膝も何も見えなくして了つた。

恰度、うまいぐあひに日はさすがに次第に灰鼠色に暮れていつた。さあ、これからだと父親は帽子の裏を見せて、金を集めにかかつた。娘はこの街裏に巡査のすがたが、ないかどうかを警戒しはじめた。

「早く行かないとデパートが閉つてしまひますよ、お金までお出しになつて一體あの娘さんの裸を見るつもりなの、あきれた、あなたといふ人はまるで溝みたいに汚ない處につながつてゐるのね。」

「人間にはいつも偶然といふやつがあつて、それを逃がしてしまふと無味乾燥の地帶を歩かなければならないのだ。何もさう急いで此處を外す必要がない、三百圓といふ金で人間は駭いて、その駭きで見る物を見てゐた方が面白いのだ。」

「女をつれたあなたの、それが本音だと仰言るんですか、獨り者ならそんな氣になることも許せるんだが、あなたはちやんとした妻まで持つてゐて、まだ見たい物がそんなに澤山にあるんですか、まるで恥づかしいことを知らない方だ、あなたがゴミ箱のそばにいらつしやるのを、あたしがぢつと見てゐられるとお思ひになるんですか。」

では、君に質問するが、君は十四歳の膝といふものを僕に見せてくれたことがあるかどうか、いまこの機會をのがしたら僕は十四歳の膝を見ることが生涯にないのだ。」

「十四歳の膝に何があるの。」

「十四歳の膝自體は人間といふものを見たことがないのだ、人間がそれに乘ることが出來ないところに、やがては誰かが乘るまでの、無風状態が僕を惹きつけるのだ。嘗て人間の中の女はみなかういふところで、誰にも見られず本人も知らないで育つたといふことに、いま氣がつきはじめたのだ。たんにそれは清いとか美しいといふものではなく、ああ、能くそれまでにひそかに形づけられ成長したといふことで、人間がまれにおぼえる感謝といふものをひそかに受けとりたいのだ、そしてそれは君の十四歳といふ年齡にあと戻りして君を愛するもとにもなる。君は目前のいやらしさがたまらないといふのであらう、僕だつてこの少女の前では僕自身がどうにも厭らしくてならないのだ、併し僕のかういふ根性はここまで墮落してかからなければゐられないのだ。」

「ぢやごらんになるがいいわ、恥づかしくなかつたら。」

「恥づかしいからそれを揉み消すために、無理にも見物するのだ。」

「出來たらその不潔な眼をくり拔いてあげたい。」

「僕もいつもそれをねがつてゐるのだ、僕のセックスも引き拔きたいのだ。」

「あきれた。」

「この二匹のうはばみを見物してゐるのは僕や君ではなくて、實は僕や他のここにゐる連中がかれらから見られてゐるのだ。少女の前でいやおうなしに何かを白状してゐる僕らが、やはり同樣の何匹かのうはばみなんだ。」

「あなたはそんな下劣さをふだんには、うまく匿くしていらつしつたのね。何食はぬ顏つきで女のどんな部分でも見逃がすまいとしていらつしやる慾情が、あたしに嘔きたくなるくらゐ厭世的な氣持になるわ。あんな女の子の膝が見たいなんて、それは、まともな人間の考へだと思つていらつしやるんですか。」

「僕が拂ふ金であの子は何かが買へる。僕が見ないで通りすぎればあの子の收入がそれだけ減るのだ、僕自身だつて見ないより見た方がいい、美しい人間を見ることに誰に遠慮がいるものか。」「あたしがゐても、見たいんですか。」

「君がゐるから一そう見たいのだ、君にない物がここに存在してゐるとしたら、それを見るといふことも物の順序なんだ。」

「なさけない方だ。そんな方と肌を交はしてゐたことが取り返しのつかない氣がして來るわ。いまは見るかげもない一人の男としてのあなたを、その見るかげのない處からたすけ出すことがあたしには厭になつて來ました。あたしは何時もあなたのいやらしいところから、それをたすけるためにいろいろ苦心をして來たんですけれど、もうまるでそんな氣は打抛つて了ひました。ゆつくりご覽になつた方がいいわ。その眼が眞正面にいとけない女の子に對つてゐられたら、此處に殘つて見ていらつしやい。人間のまもらなければならないところに、そのまもりを破つても物を見ようとする心が、どのあたりできまりがつけられるかも、ついでに能く見て置いた方がいいわ。」

人間なんかに、物のきまりがあるものか。君の説得はそれきりなの。

「あさましい方だ。あさまし過ぎて白紙みたいな方だ。併しどうしてそれにいままであたしが氣がつかなかつたのか、寧ろあたしはそれを搜してみたい氣持なんです。」

「僕はそれでたくさんなのだ、品の好い人間にならうと心がけたことは、いまだ、かつて一度だつてないのだ。」

「では、あたしお先にまゐります。ゆつくりごらんになつてゐた方がいい。」

「何も先きに行かなくとも、二分間もあれば見られるぢやないか。」

「その眞面目くさつたお顏も、いままでに一遍だつて見たことがないお顏なんです。あなたにも、そんな懸命みたいなお顏をなさるときがあるのね。」

「あるさ、けふはそれが甚だしく現はれてゐるとでも、君はいひたいのか。」

「二分間であたしを失ふことになつたら、どう處置なさるおつもり。」

「この二分間がどんなに汚ないものであつても、君は去らないさ。」

「去つたとしたら?」

「去らないよ君は、かういふことで女が去るとしたら、女は一生涯去り續けなければならないものだ。」

「では行くわ。」

(室生犀星『末野女』初出:「小説新潮」1961(昭和36)年9月)


…………………




見えないように裾を下げようとするにもかかわらず、自然に上がってきてスカートの中身が見えそうになる。何物かを隠そうとする意志と、それに逆らって真理を暴こうとする運動。その緊張溢れるダイナミズムに知覚弓となって参与する第三者としての私。この三者関係のただ中にこそ、ミニスカへと欲情を固着させるオートポイエーシス装置が構造化されているのである。(森岡正博「なぜ私はミニスカに欲情するのか」2000年)


おそらく、人間が自己の身体をエロティシズムの対象として他者の前に呈示しようとするならば 、もっとも基本的な戦術はおのれの性を誇示しつつ同時に隠すということであろう。

 この「誇示しつつ隠す」という戦術は、女がある場に登場し、そこによっこらしょと腰を下ろすさいにもっともあらわになる。彼女は股を大きく広げ、なおかつ片手で股のあいだにぐいとスカートをたくしこむのである。(菅原和孝 『身体の人類学』1993年)


ヒステリー症状は、二つの相反する情動的または欲動蠢動の間の妥協として生じる。一方は部分的欲動あるいは性的構成要素を発現させようとし、他方はそれを抑制しようとするものである。

Das hysterische Symptom entsteht als Kompromiß aus zwei gegensätzlichen Affekt- oder Triebregungen, von denen die eine einen Partialtrieb oder eine Komponente der Sexualkonstitution zum Ausdrucke zu bringen, die andere dieselbe zu unterdrücken bemüht ist.〔・・・〕


類似した例として、患者が潜在する性的幻想の両方の役割を同時に演じる、ある種のヒステリー発作が挙げられる。例えば、私が観察したある症例では、彼女は片方の手で衣服を体に押さえようとし(女性として)、もう片方の手でそれを捲り上げようとする(男性として)。この矛盾した同時性こそが、発作において非常に鮮明に提示される状況の不可解さの大きな原因であり、そのため、活動的な無意識の幻想を覆い隠すのに非常に適している。

weitere Gegenstücke zeigen gewisse hysterische Anfälle, in denen die Kranke gleichzeitig beide Rollen der zugrunde liegenden sexuellen Phantasie spielt, also zum Beispiel wie in einem Falle meiner Beobachtung, mit der einen Hand das Gewand an den Leib preßt (als Weib), mit der anderen es abzureißen sucht (als Mann). Diese widerspruchsvolle Gleichzeitigkeit bedingt zum guten Teile die Unverständlichkeit der doch sonst im Anfalle so plastisch dargestellten Situation und eignet sich also vortrefflich zur Verhüllung der wirksamen unbewußten Phantasie.

(フロイト『ヒステリー性幻想、ならびに両性性に対するその関係(Hysterische Phantasien und ihre Beziehung zur Bisexualität) 』1908)


なおここでの「男性性/女性性」は生物学的意味ではなく「能動性/受動性」であるので注意[参照]。


………………



◼️赤羽建美『「女の勘」はなぜ鋭いのか』2008年

ミニスカートをはいている女性に、

「それって、男の視線を意識してるんだよね」

と聞くと、決まって次ぎのような答えが返ってくる。

「そうじゃないわ。おしゃれだからはいているの」


ミニスカートでも、胸元を強調したキャミソール(女性用の下着でウエストまでのもの。スリップの短いやつと思えばいい。最近はそれを‘あえて見せる着方をする)でも、ヒップにぴったりのパンツでも、答えは同じである。「ファッションを楽しむために身につけているので男性を意識したものではない」と彼女たちは言う。果たしてそれが女性の本音だろうか。わたしはどうもそうは思えない。


わたしが大学生だったころ。学食で昼飯を食べていたら、隣りにいた同級生の男子学生がわたしにこう言った。


「あそこにいる女の子。かなり意識しているよな。あの食べ方を見ろよ。気取りやがって」


彼があごでしゃくって示した女子学生を見てみると、確かに彼女は思いっきり他人の目を気にしてカレーを食べているように見えた。スプーンにのせるカレーの量はほんのわずか。あんなに少しずつでは、食べた気がしないだろう。家では三倍くらいの量を一口で食べているのではないかと疑いたくなるくらい少量なのだ。それをゆっくりと口元にもっていく。口の中にカレーを入れるときも決して大きく口を開かない。そのうえ、髪が邪魔になっているわけでもないのに、ときどき髪をかきあげるような仕草をする。


こんな姿をみていると、いかに上品にあるいはきれいに見えるかを考えて、食べているとしか思えない。つまり、彼女は自分自身で自分を演出しているように見える。わたしはそれほどではなかったが、級友はなぜかその彼女のことが気になってしかたがなかったらしい。それは異性への関心の裏返しともいえるのかもしれない。


いずれにせよ、その女子学生は他人の目、もちろん、それは同性の目ではなく男子学生たちの目を意識してそうしていたのだろう。


同性の目といえば、こんなエピソードがある。


私立の女子校で教師をしていた友人によると、女子生徒たちは男の目があるのとないのとではガラッと態度が変わるという。彼が直接目撃したかどうかまでは知らないが、夏の暑い日の教室では、女子生徒が制服のスカートのすそをたくしあげてその中に教科書で風を送り込む、そんな姿がよく見られるというのだ。どうやら、女子校での教室では男の想像を絶する破廉恥な光景が展開されているらしい。


この二つの例からも、女性は異性の目がなければあれれもない姿をさらけだすことも平気なくせに、異性の目がある場では、大学の学食の女子学生のように女らしさを強調しているように思えてならない。


つまり、女性たちは本当のところを隠している。もっと言ってしまえば、「おしゃれだから」というのは一種のカモフラージュのため。そう解釈していいだろう。彼女たちは男を意識していることを隠そうとしている。


だいたい、ミニスカートをはいている女性に目がいくのは、女性よりも男のほうが圧倒的に多い。女性は友人がかわいいミニスカートをはいてきたのであれば、それなりに関心を示し、「かわいいね」くらいのほめ言葉を口にするかもしれない。しかし、見ず知らずの女性がどんなにかわいいミニスカート姿であってもまったく関心を示さない。男が男の下着姿を見てもなんとも感じないのと同じだ。ところが、男は見ず知らずの女性のミニスカート姿にあまねく関心を示す。このことから考えても、女性がミニスカートをはくのは異性の目を意識しているからだと思える。


しかし、女性は同性から「男に見られるのを計算してミニスカートをはいている」と思われるのが嫌なのだろう。本当はそうであっても他人からそれを指摘されると、女性はプライドを傷つけられた気がするのではないか。


男のわたしには、どうしてそんなことでプライドが傷つけられるのか理解できない。女性がセクシーさを武器にするのは悪いことではない。いや、そうして当然だと思う。


セクシーであることに関して、日本の女性たちの意識はかなり控えめで、欧米などの先進国の基準からすると大分遅れている。そこに問題がある。初体験の年齢が年々低くなっても、ミニスカートをはいた若い女性が街に増えつつあっても、女性たちの意識は未だに和服を着ていた時代とたいして変わっていないらしい。


ミニスカートの女性に険しい視線を送る年長の女性もいる。そうした社会だからこそ、「おしゃれではいているの」と言い訳しなければならないのかもしれない。


日本女性たちの性意識の歪みは、かなり根深いように思う。


それは、和服という伝統文化が象徴しているように、包み隠すことに対する美意識や倫理観が大きな理由となっているのではないだろうか。つまり、日本の文化は謙虚さや純潔さに代表される恥じらいの文化ともいえる。そういった意識は、日本人が長年培ってきたものだから、和服を着なくなっても簡単には変わるものではない。


恥じらいの文化は、肉体に対する考え方にも通じる。


長い間、日本女性は体を隠さなければいけないと教えられてきたために、自分の肉体を素直に受け入れられないという弊害が生れてしまった。その結果、女性たちの多くは、本音の部分では理想的なプロポーションを保ち多くの人に注目してもらいたいと思っているのに、その魅力的な肉体を素敵な洋服で飾り人目にさらすことに、心のどこかで罪悪感を感じてしまうのだろう。


だから、男の視線を充分に意識してミニスカートをはいていても、態度にはそれを出さないようにしてしまうのである。


また、女性が男のためにつくすのはおかしいというフェミニズムの思想から端を発し、女性は男のために何かしてはいけない、男たたいの視線を意識してセクシーさに磨きをかけるのは男に向けた女性の商品化だ、などという見当はずれの理屈を生んでしまった。


そんなふうに言われたら、ミニスカートを颯爽とはきこなしている女性たちの立場がない。


ここでは、女の敵は女、と言っておこう。


◼️村瀬ひろみ「「性的身体」の現象学  「ミニスカ」からみる消費社会のセクシュアリティ構造 」2002年

ミニスカートをまとう存在としての「私」は、男を誘惑するだけの人形だろうか。


長いスカートの鬱屈した不自由さ、まとわりつく布の抑圧から逃れ、より行動的になるためのミニスカートだってあるはず。男がどう見ようと、動きやすい開放的なミニスカートが好きという女はいないだろうか。膝小僧が見えるよりはるかに短い丈のスカートこそ、足がキレイに見えると鏡の前でひそかにほほ笑むことはないだろうか。


そんなミニスカートに、一部の男性たちは欲情するという。そのこと自体は、率直な言説であって、フェミニズムが批判すべきことではないかもしれない。しかし、そこに「ミニスカートをまとう私」という主体の視点が欠落していると気づくとき、私は、新たな地点から「ミニスカート」にまつわる言説を検証していく必要性を感じるのである。



……………


※附記



身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。…精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇[intermittence]である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらりと見える肌[ la peau qui scintille]の間歇。誘惑的なのはこのチラチラ見えること自体 [scintillement même qui sédui]である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出[ la mise en scène d'une apparition-disparition ]である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)

服を着ること自体、見せることと隠すことの動きのなかにある[Le vêtement lui-même est dans ce mouvement de montrer et de cacher.](ジャック=アラン・ミレール 「享楽の監獄」J.-A. Miller, LES PRISONS DE LA JOUISSANCE, 1994年)


むかし、日本政府がサイパンの土民に着物をきるように命令したことがあった。裸体を禁止したのだ。ところが土民から抗議がでた。暑くて困るというような抗議じゃなくて、着物をきて以来、着物の裾がチラチラするたび劣情をシゲキされて困る、というのだ。


ストリップが同じことで、裸体の魅力というものは、裸体になると、却って失われる性質のものだということを心得る必要がある。


やたらに裸体を見せられたって、食傷するばかりで、さすがの私もウンザリした。私のように根気がよくて、助平根性の旺盛な人間がウンザリするようでは、先の見込みがないと心得なければならない。(坂口安吾「安吾巷談 ストリップ罵倒」1950年)


………………


男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。(芥川龍之介『侏儒の言葉』1927年)

追っかけと誘惑はセクシャリティの本質である[Pursuit and seduction are the essence of sexuality. It’s part of the sizzle](カミール・パーリア Camille Paglia、Sex, Art, and American Culture、1992)


実際又河童の恋愛は我々人間の恋愛とは余程趣を異にしてゐます。雌の河童はこれぞと云ふ雄の河童を見つけるが早いか、雄の河童を捉へるのに如何なる手段も顧みません。一番正直な雌の河童は遮二無二雄の河童を追ひかけるのです。現に僕は気違ひのやうに雄の河童を追ひかけてゐる雌の河童を見かけました。いや、そればかりではありません。若い雌の河童は勿論、その河童の両親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです。雄の河童こそ見じめです。何しろさんざん逃げまはつた揚句、運好くつかまらずにすんだとしても、二三箇月は床についてしまふのですから。〔・・・〕


尤も又時には雌の河童を一生懸命に追ひかける雄の河童もないわけではありません。しかしそれもほんたうの所は追ひかけずにはゐられないやうに雌の河童が仕向けるのです。僕はやはり気違ひのやうに雌の河童を追ひかけてゐる雄の河童も見かけました。雌の河童は逃げて行くうちにも、時々わざと立ち止まつて見たり、四つん這ひになつたりして見せるのです。おまけに丁度好い時分になると、さもがつかりしたやうに楽々とつかまつてしまふのです。(芥川龍之介『河童』1927年)



………………



男の愛と女の愛は、心理的に別々の位相にある、という印象を人は抱く[Man hat den Eindruck, die Liebe des Mannes und die der Frau sind um eine psychologische Phasendifferenz auseinander.](フロイト『新精神分析入門講義』第33講「女性性 Die Weiblichkeit」 1933年)


われわれは女性性には(男性性に比べて)より多くのナルシシズムがあると考えている。このナルシシズムはまた、女性による対象選択に影響を与える。女性には愛するよりも愛されたいという強い要求があるのである。

Wir schreiben also der Weiblichkeit ein höheres Maß von Narzißmus zu, das noch ihre Objektwahl beeinflußt, so daß geliebt zu werden dem Weib ein stärkeres Bedürfnis ist als zu lieben.〔・・・〕

もっとも女性における対象選択の条件は、認知されないまましばしば社会的条件によって制約されている。女性において選択が自由に行われる場では、しばしば彼女がそうなりたい男性というナルシシズム的理想にしたがって対象選択がなされる。もし女性が父への結びつきに留まっているなら、つまりエディプスコンプレクスにあるなら、その女性の対象選択は父タイプに則る。

Die Bedingungen der Objektwahl des Weibes sind häufig genug durch soziale Verhältnisse unkenntlich gemacht. Wo sie sich frei zeigen darf, erfolgt sie oft nach dem narzißtischen Ideal des Mannes, der zu werden das Mädchen gewünscht hatte. Ist das Mädchen in der Vaterbindung, also im Ödipuskomplex, verblieben, so wählt es nach dem Vatertypus. (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年)


ーー《ナルシシズムつまり自己愛[ »Narzißmus« oder Selbstliebe ]》(フロイト『自己を語る』1925年)


男性と女性とを比較してみると、対象選択の類型に関して両者のあいだに、必ずというわけではもちろんないが、いくつかの基本的な相違の生じてくることが分かる。愛着型[Anlehnungstypus]にのっとった完全な対象愛[volle Objektliebe]は、本来男性の特色をなすものである。このような対象愛は際立った性的過大評価をしているが、これはたぶん小児の原ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus] に由来し、したがって性対象への転移に対応するものであろう。

Die Vergleichung von Mann und Weib zeigt dann, daß sich in deren Verhältnis zum Typus der Objektwahl fundamentale, wenn auch natürlich nicht regelmäßige, Unterschiede ergeben. Die volle Objektliebe nach dem Anlehnungstypus ist eigentlich für den Mann charakteristisch. Sie zeigt die auffällige Sexualüberschätzung, welche wohl dem ursprünglichen Narzißmus des Kindes entstammt und somit einer Übertragung desselben auf das Sexualobjekt entspricht.〔・・・〕

女性の場合にもっともよくみうけられ、おそらくもっとも純粋一で真正な類型と考えられるものにあっては、その発展のぐあいがこれとは異なっている。ここでは思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性の性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、原ナルシシズム[ursprünglichen Narzißmus ]の高まりが現われてくるように見えるが、この高まりは性的過大評価をともなう正規の対象愛を構成しがたいものにする。

Anders gestaltet sich die Entwicklung bei dem häufigsten, wahrscheinlich reinsten und echtesten Typus des Weibes. Hier scheint mit der Pubertätsentwicklung durch die Ausbildung der bis dahin latenten weiblichen Sexualorgane eine Steigerung des ursprünglichen Narzißmus aufzutreten, welche der Gestaltung einer ordentlichen, mit Sexualüberschätzung ausgestatteten Objektliebe ungünstig ist.

彼女が求めているものは愛することではなくて、愛されることであり、このような条件をみたしてくれる男性を彼女は受け入れるのである[Ihr Bedürfnis geht auch nicht dahin zu lieben, sondern geliebt zu werden, und sie lassen sich den Mann gefallen, welcher diese Bedingung erfüllt. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)


人間は二つの根源的な性対象を持つ。すなわち、自分自身と世話をしてくれる女性である。この二つは、対象選択において最終的に支配的となるすべての人間における原ナルシシズムを前提にしている[der Mensch habe zwei ursprüngliche Sexualobjekte: sich selbst und das pflegende Weib, und setzen dabei den primären Narzißmus jedes Menschen voraus, der eventuell in seiner Objektwahl dominierend zum Ausdruck kommen kann. ](フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)

自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす[Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む[haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt]  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)


冗談にも「愛は郷愁だ」と言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort,


そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen.(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)



なお先にある「原ナルシシズム」は自体性愛(自己身体愛)と等価である[参照]。





なお原点にある自己身体は喪われた母の身体であり、フロイトは母の乳房をしばしば強調しているが、究極的には《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)、あるいは喪われた母胎である。




………………



ファルスになるためにーーつまり大他者の欲望の対象になるためにーー、女は女性性の本質的部分を拒否する。つまり女性性のすべての属性を拒絶して仮装のなかに隠す。女は、彼女でないもののために、愛されると同時に欲望されることを期待する。C'est pour être le phallus c'est à dire le signifiant du désir de l'Autre que la femme va rejeter une part essentielle de la féminité, nommément tous ses attributs, dans la mascarade. C'est pour ce qu'elle n'est pas qu'elle entend être désirée en même temps qu'aimée. (ラカン 「ファルスの意味作用」E694、1958年)


この1958年のテキストは、女性性に関するラカンのポジションを教えてくれる。このテキストは、今ではセミネール20「アンコール」に比べ、しばしば見逃されている。だがラカン のその後の展開の胚芽的起源を含んでいる。


このテキストが示しているのはーー、

①女はファルスではない。だが女は、欲望のシニフィアン、大他者にとってのファルスになることを欲望することである。ここに現れているのは、女の女自身に対する他者性の命題である。女は自らを大他者に欲望のシニフィアンに転化させる。というのは大他者はファルスを欲望するから。That a woman is not the phallus but desires to be the phallus for an Other as a signifier of his desire. Here appears the theme of woman's otherness with regard to herself: she turns herself into the signifier of the Other's desire. For the Other desires the phallus.(…)

②仮装は存在の原欠如の上に構築されている。女性の仮装によって拒絶される女性性の本質的部分は何か。最初の接近法としてこう言おう。拒絶される女性性の本質部分は女性器である。女は女性器(肉体的裂目)をヴェールする。そして身体の他の部分を見せびらかす。


The masquerade is built on this primordial lack in being. What is the essential part of her femininity that is rejected? Let us say it in a first approach: it is the sexual organ. She veils the sexual organ (the anatomical gap), whereas she displays other parts of her body. (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, On Women and the Phallus, 2010)