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2025年9月28日日曜日

言語ゲームと家族的類似性


前回、「概念のめがね、言語のめがね」をめぐって記してが、ここではいくらか異なった相からウィトゲンシュタインの言語ゲームと家族的類似性を掲げておこう。


言葉の意味は、言語内のおけるその使用法である[Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.](ウィトゲンシュタイン「哲学探究」第43節)

言語ゲームが変化するとき、概念も変化し、概念とともに言葉の意味も変化する[Wenn sich die Sprachspiele ändern, ändern sich die Begriffe, und mit den Begriffen die Bedeutungen der Wörter.](ウィトゲンシュタイン『確実性について』65節)


伝達という言語ゲームは何なのだろうか? 


私は言いたい、あなたは人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。つまりわれわれは、会話において言語を使った伝達にとても慣れてしまっているので、伝達において重要なことの全ては、他人が私の言葉の意味 ―― 心的な何か ―― を把握する、いわば彼の心のうちに受け入れることの中にある、と思っている。

Was ist das Sprachspiel des Mitteilens?


Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. 

(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』363節)





われわれが言語と呼ぶものすべてに共通な何かを述べる代わりに、わたくしは、これらの現象すべてに対して同じことばを適用しているからといって、それらに共通なものなど何一つなく、――これらの現象は互いに多くの異なった仕方で類似しているのだ、と言っているのである。そして、この類似性ないしこれらの類似性のために、われわれはこれらの現象すべてを「言語」とよぶ。

Statt etwas anzugeben, was allem, was wir Sprache nennen, gemeinsam ist, sage ich, es ist diesen Erscheinungen gar nicht Eines gemeinsam, weswegen wir für alle das gleiche Wort verwenden, – sondern sie sind miteinander in vielen verschiedenen Weisen verwandt. Und dieser Verwandtschaft, oder dieser Verwandtschaften wegen nennen wir sie alle »Sprachen«. 

(ウィトゲンシュタイン『哲学研究』65節)






私たちが見ているのは、多くの類似性――大きなものから小さなものまで――が互いに重なり合い、交差してできあがった複雑な網状組織なのである。

私は、この類似性を特徴付けるのに「家族的類似性」という言葉以上に適切なものを知らない。なぜなら家族の構成員の間に成り立つ様々な類似性――体格、顔つき、眼の色、歩き方、気性、等々――は、まさにそのように重なり合い、交差しているからである。そこで私はこう言いたい、「ゲーム」もまた一つの家族を構成しているのだ、と。


Wir sehen ein kompliziertes Netz von Ähnlichkeiten, die einander übergreifen und kreuzen. Ähnlichkeiten im Großen und Kleinen. 

Ich kann diese Ähnlichkeiten nicht besser charakterisieren als durch das Wort »Familienähnlichkeiten«; denn so übergreifen und kreuzen sich die verschiedenen Ähnlichkeiten, die zwischen den Gliedern einer Familie bestehen: Wuchs, Gesichtszüge, Augenfarbe, Gang, Temperament, etc. etc. – Und ich werde sagen: die ›Spiele‹ bilden eine Familie. 

(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』66ー67節)







ウィトゲンシュタインが反対するのは、複数的な規則体系を、一つの規則体系によって基礎づけることであるといってよい。しかし、数学の多数体系はまったく別々にあるのではない。それは相互に翻訳可能だが、共通の一つをもたないだけである。彼は、そうした「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」を「家族的類似性」と呼ぶ。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) 





分類には、共通項による分類のほかに、1930年代に論理哲学者ヴィトゲンシュタインが抽出した「家族類似性」という、共通項のない分類がある。「家族類似性」という名は、父と兄は鼻と目が、父と娘は目と口が、母と兄は口もとと耳たぶが、兄と弟は口もとが似ているが、必ずしも家族全員に共通の類似点がないことが多いという事実からの発想である。〔・・・〕

分類についての、個々人の基本的な構えも、各自異なる。究極には「世界を一つの宇宙方程式に還元する」ことをよしとする人と「世界は多様であること」をよしとする人があるのであろう。かつて私が若くてもっとむこうみずに造語していたころ、前者を「公理指向性」(axiomatotropism)、後者を「範例〔パラダイム〕指向性」(paradigmatotropisum)と呼んだことがある。「単一精神病」論者と多数の「下位群」を抽出する人との間には心理的因子の相違がある。おそらく気質的因子もあるだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年 )







精神科医の病いの分類が「家族類似性」に従うかも知れないことはすべに述べた。遺伝学は分裂病の遺伝性を多因子遺伝であると言っているが、これは環境因というのにほぼ等しい。遺伝子の活性化が一つでも行われないと表現型として現われない(ないしは別のものになる)ことになるからである。そうであれば遺伝子の発現はオペレーターあるいはサプレッサー遺伝子をつうじて環境条件に左右されるからである。一般に家族類似性による漠然とした境界づけになる可能性が高いであろう。そもそも多遺伝子遺伝の代表というか極限は“人体全体”であって、ウリのツルにはナスビはならない。しかし同時に、枚挙し同定しえない環境条件が、たとえば鎖国以後も日本人の容貌体型をゆるやかに、しかし大幅に、変えている。そして容貌・体型こそ「家族類似性」をヴィトゲンシュタインが抽出した原標本なのである。つまり同定しコントロールできない要因が多すぎる。


「人体」といって「人間」と言わなかった。一卵性双生児遺伝の一致例(最近の報告は約30%)では妄想の形式までは一致するが内容までの一致はないらしい。(人間の思考内容が遺伝しえないことは、遺伝子の含むビット数(情報単位の数)と神経細胞のあらゆる組み合せのビット数を比べると後者が格段に多いという推論から示唆される。)遺伝学者メダワーが、生物学的遺伝機構ではまかない切れないから文化的伝統が「体外遺伝」として生じたと述べたのも一理がある。「本能がこわれたから文化が必要になった」というものこれに近いおおまかな表現であろうか。なお蛇足であるが、遺伝を静的とみなすのは遺伝学者以外の人々であるようだ。(中井久夫『治療文化論』1990年)


分裂病の遺伝性に関するタブーに触れそうだが、私が問題にしている機能自体は遺伝しなければ人間の形をなさないもので、手足や顔の形態や機能の遺伝と同じである。失調するかどうかは、非常に多くの要因がからんでいるであろう。なお、この機能は必ずしも人間に限らなくて、ひょっとすると系統発生的に古い成分を含んでいるかもしれない。変化しか認知しないという点(分裂病の微分回路的認知)では、嗅覚がそれに近いと思う。また、調節遺伝子を含む多因子遺伝は、古典的な遺伝対環境論を無効にする。(中井久夫「精神分裂病の病因研究に関する私見」1994年『精神科医がものを書くとき』所収)




………………



※附記: 私的言語[Privatsprache]


語はいかにして感覚を指示するのか?―― そこに問題は何もないように思われる。というのも、私たちは普段、感覚について語り、その名前を言っているのではないか? しかし名前と名指されたものとの結合はどのように作られるのか? この問いは「人はいかにして感覚の名前 ―― 例えば『痛み』 ―― の意味を学ぶのか?という問いと同じである。


ひとつの可能性がある。つまり言葉が根源的で自然な感覚の表出に結び付けられ、それの代わりになっている。


子供が怪我をして泣く。すると大人たちがその子に語りかけて、感嘆詞を教え、後には文章を教える。彼らは子供に新しい痛みの振る舞いを教えるのである。


「すると、『痛み』という語は実際には泣き喚くことを意味していると言うのですか?」――逆である。すなわち、痛みの言葉による表現は、泣き声の代わりなのであって、それを記述しているのではないのだ。


Wie beziehen sich Wörter auf Empfindungen? - Darin scheint kein Problem zu liegen; denn reden wir nicht täglich von Empfindungen, und benennen sie? Aber wie wird die Verbindung des Namens mit dem Benannten hergestellt? Die Frage ist die gleiche wie die: wie lernt ein Mensch die Bedeutung der Namen von Empfindungen? Z.B. des Wortes »Schmerz«. Dies ist eine Möglichkeit: Es werden Worte mit dem ursprünglichen, natürlichen, Ausdruck der Empfindung verbunden und an dessen Stelle gesetzt. Ein Kind hat sich verletzt, es schreit; und nun sprechen ihm die Erwachsenen zu und bringen ihm Ausrufe und später Sätze bei. Sie lehren das Kind ein neues Schmerzbenehmen.

»So sagst du also, daß das Wort ›Schmerz‹ eigentlich das Schreien bedeute?« - Im Gegenteil; der Wortausdruck des Schmerzes ersetzt das Schreien und beschreibt es nicht.

(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』第244節)