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2025年9月28日日曜日

リベラルパトリオティズム

 


Haz Al-Dinはすばらしいこと言う、少し前にも絶賛したが。


Haz Al-Din @InfraHaz 2025/09/28

アメリカ帝国の崩壊を支持するからといって、アメリカへの裏切り者になるのではない。あなた方を真の愛国者(パトリオットpatriot )にする。


真の裏切り者は、アメリカ国民の生活と未来を破壊している政権の提灯持ちである。


私たちの政権が他国のジェノサイド、破壊、抑圧を助長しているのは、この国に対する露骨な無視の延長である。


病人、高齢者、孤児の世話をしているのは誰だろうか?アメリカ国民とその未来に投資しているのは誰だろうか?地域社会を活性化し、労働者の繁栄を促進しているのは誰だろうか?


他者の親を理解できる道徳心を持つことができるのは、親だけである。


自国民を大切にする政権だけが、同じことをしようとしている他国に対して道徳心と敬意を持つことができる。

しかし、私たちの政権はリンゼイ・グラハムのようなものだ。老いて、倒錯し、病弱で、子供もいない。他国を搾取し、殺害し、拷問することに何の抵抗も感じない。なぜなら、この国、アメリカという国家は、我々の政権にとって取るに足らない存在だからだ。無だ。


我々の政権は、まるで病的で虐待的な小児性愛者のようだ。私たちは祈るべきだ、責任感があり、良識ある他の親たち、特にロシアと中国が、この怪物を倒してくれるように。そうすれば、アメリカ国民は健やかに成長し、自らも良き親になれる。


ワシントンの政治家たちと、彼らのウォール街の資金運用の達人たちは、アメリカ国民に対する大逆罪を犯している。


重要なのは愛国者ーーナショナリストではなくパトリオットという意味での愛国者だ。

彼にとってこのパトリオットが左翼である。

Haz Al-Din @InfraHaz Jun 8, 2024


民主党は「左翼」ではない。

民主党と共和党はどちらも同じ政治的覇権の一部である。


覇権の中に政治的「翼」は存在しない。同じルールを強制するための異なる戦略があるだけだ。

これらの戦略は、米国の異なる人口を管理する要件に基づいてのみ異なる。


​​同じ覇権主義でも、若者に正当性をアピールするときは、年配者とは異なる戦略が適用される。 黒人対白人、田舎対都会などだ。


共和党と民主党は、異なる人々を管理するという点においてのみ異なる。しかし、目標は同じである。同じ覇権を強制することだ。


状況に応じて、覇権は民主党または共和党に傾く可能性がある。それは政治や国が「左」または「右」に動くこととは何の関係もない。


トランプはほんの少しの変化球だった。しかし、メディアに対するすべての騒ぎにもかかわらず、彼でさえそれに従う。


覇権の中に政治はない。政治は権力闘争である。同じ権力を代表している民主党と共和党の間で権力争いが起きることはあり得るだろうか?


私たち国民だけが、異なる政治勢力を代表できる。だから私に簡単に説明させてほしい。


覇権に反対するなら、あなたの社会的見解に関係なく、客観的に左翼である。

覇権を擁護するなら、あなたの社会的見解に関係なく、客観的に右翼である。


覇権の外にいるなら、国家安全保障に対する脅威とみなされ、FBI と DHS の標的になる。

ソーシャルメディア上では、私や私の同志に対するのと同じように、心理作戦があなたに対して繰り広げられる。


アメリカは占領国だ。国民主権はない。

アメリカを占領から解放したいなら、あなたは客観的に左翼である。

Haz Al-Din @InfraHaz Jun 8, 2024


The Democrats are not 'left-wing.'


Both the Democratic and Republican party are part of the same political hegemony.


There are no political 'wings' within a hegemony. Only different strategies to enforce the same rule.


These strategies differ based only on the requirements of managing different populations in the US. 


The same hegemony applies a different strategy when it comes to appearing legitimate to young people than it does for older. Black vs white, rural vs urban, etc.


The Republican and Democratic parties only differ in terms of managing different populations. But the goal is the same: Enforcing the same hegemony.


Depending on circumstances the hegemony may tilt Democrat or Republican. It has nothing to do with politics or the country moving 'left' or 'right.'


Trump was only a slight curveball. But despite all the blustering against the media, even he submits to it. 


There is no politics within the hegemony. Politics is a struggle for power. How can there be a struggle for power between Democrats and Republicans when they represent the same power?


Only we the people can represent different political wings. So allow me to make it simple for you:


If you oppose the hegemony, you are objectively Left-Wing, regardless of your social views.


If you defend the hegemony, you are objectively Right-Wing, regardless of your social views.


If you are outside the hegemony, you are considered a threat to national security, and you will be targeted by the FBI & the DHS.


Psyops will be unleashed against you on social media, like they are against me and my comrades.


America is an occupied country. There is no popular sovereignty.


If you want to free America from the occupation, you are objectively Left-Wing.



Haz Al-Dinのような立場を、ここでは「左翼パトリオティズム(Left Patriotism)」と呼んでおこう。あくまで「仮に」であり、政治用語には例えばウィル・キムリッカ(Will Kymlicka)のリベラルナショナリズム(Liberal nationalism)なんて奇妙な語もあるようだからな。私の観点ではこれはリベラルパトリオティズム(Liberal patriotismとしたほうがよい気がしているが。

誰か言っている人はいないかと探ってみたら、「リベラルパトリオティズムに向けて(Towards a Liberal Patriotism)」samuel gregg JULY 3, 2025というエッセイがあるよ、先を越されたな。で、《古典的リベラルはパトリオティズムの立場をナショナリストに譲り渡してはならない[Classical liberals must not cede the ground of patriotism to nationalists.]》だってよ。



さて現在でも、パトリオティズムとナショナリズムの相違を語るときの基礎文献とされるヴィローリの1995年の論文にはこうある。


パトリオティズムという言葉は何世紀にもわたり、一つの集団の共同の自由を支える政治制度と生活様式への愛、つまりは共和政体への愛を強めたり喚起したりする目的で使われてきた。 ナショナリズムという言葉は、18世紀後半のヨーロッパで、人々の文化的、言語的、民族的な一体性と均質性を擁護または強化するために作られた。共和主義的パトリオティズムの敵が暴政や独裁政治、抑圧や腐敗であるのに対して、ナショナリズムの敵は異文化による文化の汚染、異種混交、人種的不純、そして社会的、政治的、知的な不統一である。

The language of patriotism has been used over the centuries to strengthen or invoke love of the political institutions and the way of life that sustain the common liberty of a people—or love of the republic; the language of nationalism was forged in late eighteenth-century Europe to defend or reinforce the cultural, linguistic, and ethnic oneness and homogeneity of a people.(…) 

whereas the enemies of republican patriotism are tyranny, despotism, oppression, and corruption, the enemies of nationalism are cultural contamination, heterogeneity, racial impurity, and social, political, and intellectual disunion

〔・・・〕

歴史上しばしば見られたように、国民が道徳的・政治的危機に直面すると、パトリオティズムかナショナリズムかいずれかの言葉が知的覇権を握る可能性が高い。これらの言葉は、他の言葉には欠けている団結と動員の力を有しているように思われる。

As history has often shown, when a nation faces a moral and political crisis, either the language of patriotism or that of nationalism is likely to attain intellectual hegemony. Those languages seem to possess a unifying and mobilizing force that others lack. 

(マウリツィオ・ヴィローリ『パトリオティズムとナショナリズム―自由を守る祖国愛』Maurizio Viroli, For Love of the Country: An Essay on Patriotism and Nationalism, Oxford University Press. 1995)


プーチンもこのヴィローリの区分の線で語っている。


◼️プーチン、於「教育マラソン「知識。最初のもの」」2025年4月30日

ナショナリズムはナチズムへの第一段階であり、最初の一歩です。なぜなら、ナショナリズムは単に自らの民族の代表者への愛だけでなく、他者への憎悪に基づいているからです。それがナショナリズムの本質です。パトリオティズムは全く別の問題です。祖国を愛することは、他者を憎むことではない。


Nationalism is the first stage towards Nazism, it is the first step. Because nationalism is based not simply on love for representatives of one's own ethnic group, but on hatred for others. That is the essence of nationalism. Patriotism is a completely different matter. Loving one's homeland does not mean hating others," Putin said at a meeting with participants of the educational marathon "Knowledge.

ーーApril 30 by Russian President Vladimir Putin at a meeting with participants of the educational marathon "Knowledge. The first ones."



なお米国のような移民国家、ロシアのような多民族国家におけるパトリオティズムと、日本のような単一民族幻想を抱えた国におけるパトリオティズムは異なる。日本の場合のパトリオティズムはおそらくナショナリズムにいっそう容易に侵食される。



パトリオティズムとは、幼少期より自然に形成された具体的な郷土への愛着のことである。これに対して、ナショナリズムとは、全ての人民による、抽象的な政治的共同体すなわち国家への一体的な忠誠心のことである。両者の関係は複雑である。なぜなら、後者のために前者は郷党根性などとして否定されうるが、同時に、空疎となるおそれのある後者の補完として前者は利用されうるからである。(橋川文三『ナショナリズム その神話と論理』1968年)



なお私は究極的には「全世界は異郷派」だからな、リベラルパトリオティズムはあくまでの次善の妥協だよ。

故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。

The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place.

(サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章)




柄谷はこの言葉を次のように注釈している。

こういう言葉があります。 《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。》

これは、サイードが『オリエンタリズム』においてアウエルバッハから孫引きした、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節です。 


これはとても印象的な言葉で、トドロフも『他者の記号学』の中でサイードから再引用しています。僕なんかが漠然と考えていたことを言い当てている、という感じがするんですね。

その言葉は、思考の三段階ではないとしても、三つのタイプを表していると思います。まず最初の「故郷を甘美に思う」とは、いわば共同体の思考ですね。アリストテレスがそうですが、このタイプの思考は、組織された有限な内部(コスモス)と組織されない無限定な外部(カオス)という二分割にもとづいているわけです。もちろん、このタイプの思考は、なにもアリストテレスにかぎらない。今の文化記号論でもみんな内部と外部の分割がまずあって、その境界線を越える、というような問題として語られているわけですね。しかし、そういう意味での共同体の外部というものは、むしろ「異界」と呼ぶべきだと思うんです。また、外にいるものを「他者」ではなく、「異者」(ストレンジャー)と呼ぶべきだと思うんですよ。僕のいう「外部」とか「他者」とかは、このレベルでは存在しないのです。それは、この種の内部と外部の分割がありえな いような“空間”においてのみ現れるからであり、逆に、それはそのように閉じられたシステム(外部を含む)をディコンストラクトするものだからです。

次の「あらゆる場所を故郷と感じられるもの」とは、いわばコスモポリタンですが、それはあたかもわれわれが、共同体=身体の制約を飛び超えられるかのように考えることですね。あるいは、共同体を超えた普遍的な理性なり真理なりがある、と考えることです。デカルトは、それがあるかどうか、あるとすればいかにして可能なのか、ということを考えた人ですね。いわゆるデカルト主義になってしまうと、それがあることが当然になってしまう。つまり、自然科学があらゆる共同体を超えた真理である、ということになるわけです。もちろんこのことは、科学哲学の領域では、徹底的に吟味されていますけれども・・・・・・。

ふつう科学哲学の人たちは、デカルトのことを悪役に仕立てるんですね。しかし、僕は去年『GS』にデカルトの『方法序説』に関する注釈を一部書いてみたけれども、デカルトに対する批判はほとんどが見当違いだと思います。デカルトは、現代の科学哲学の持っている問題を、パラドックスまで含めてすべて提出しています。そして、まさにそういうデカルトからのみスピノザが出てこられるのです。あるものを悪役に仕立てるのは、見えすいたレトリックであり、哲学の「歴史」(出来事)をもう一つの「物語」に変えるものです。デカルトを、われわれはスピノザ的に読むべきなのです。

第三の「全世界を異郷と思うもの」というのが、いわばデカルト=スピノザなのです。むろん、ある意味でデカルトは第一、第二のタイプでもあるわけです。スピノザは、そういう意味で「完璧な人間」ですね。この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和感を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです。それは、第一のタイプが持つような内と外との分割というものを、徹底的に無効化してしまうタイプであり、しかもそれは、第二のタイプで普遍的なものというのとも、また違うわけです。


内と外との区別のない空間というのは-僕はそれを「社会的」な交通空間と呼びたいのですが-いいかえれば、それ以上の外がないという意味で、いわば「無限」の空間なんです。ふつう内部と外部というのは、有限と無限定との区別であるわけですが、その区別を無効にしてしまうような無限性、それがスピノザのいう「無限」だと思います。(柄谷行人「スピノザの「無限」」『言葉と悲劇』所収、1989年)


なおジジェクは、デカルトの『方法序説』に触れつつこう言っている、《大切なことは、異邦人のなかに我々自身を認知することではない。我々自身のなかに異邦人を認めることだ。人はみな、各人それぞれの仕方で、風変わりな変人だと認めること。異なった生活様式の寛容な共存にとっての唯一の希望を与えてくれるものはここにしかない[The point is thus not to recognise ourselves in strangers, but to recognise a stranger in ourselves ….The recognition that we are all, each in our own way, weird lunatics, provides the only hope for a tolerable co-existence of different ways of life.]》(ジジェク, What our fear of refugees says about Europe, 29 FEBRUARY 2016